何度も書いてきたことだが、どうして親というのは、子どものテストの総合得点と偏差値しか見ないのか。
総合得点と偏差値だけを見て一喜一憂し、ほめたり叱ったり。
それがいかに愚鈍で空虚な行為であるか、よく考えてみろ!と言いたい。
1つ、例を示そう。
国語読解問題で、接続語を空所に入れる問題がよくある。これ、本来は、与えられた選択肢を見なくても空所を特定できなくてはならない。接続語とは関係を示す言葉だから、前後がどのような関係か(同等関係、対比関係、因果関係等)さえ分かれば、あとは見当がつく。そこで初めて選択肢を見る。
空所前後の関係を見抜き、「これは対比関係だ、じゃあ『しかし』『ところが』あたりだよね」と見当をつける。そこで初めて、選択肢を見る。この作業を繰り返すことで、選択肢(=罠)にひっかかる確率が減っていく。ただし、これは慣れないうちは時間がかかる。
私はすべての生徒に、たとえ時間がかかってもそのようにするのが理想なのだ、やってみろ、と指導している。選択肢を手で隠し、自分で考え、それから選べと。
まあ、実際に他塾のテストの場でそれを積極的に実践し得点できたという具体的な報告を受けたことは、さほど多くない。迫りくる時間に追い立てられ、つい選択肢に頼って答えてしまうわけだ。
ところが、ある真面目な女子生徒がそれを実践していた形跡を、その子が持参した他塾の問題用紙を見ながら発見したことがある。
空所脇には「しかし」と書いてある。一方、選択肢は「ところが」だ。対比・逆接の接続語は、ほかには選択肢に入っていない。ということは、この子はまず自分で「この空所は『しかし』かな?」と考え、それから選択肢を見たということだ。そしてそれが正解だった。
ただ、多少時間がかかっただろう。その影響かどうかは分からないが、時間切れになって記述答案が文の途中で切れている箇所があった。記述の配点は高い。一方、接続語挿入問題の配点は低い。結果的に、得点は下がった。
この子は、価値ある挑戦をした結果、総合得点を減じられた。
総合得点だけを見て一喜一憂する親は、この子がテスト中、私の指示を忠実に守って選択肢を見ずに自力で論理的思考をし答えを導き出したという、ほめたたえるべき事実に、おそらく気づいていない。
そして子どもを叱り飛ばす。
あり得ない愚行だ。
こう書くと親たちはこう反論する。
「そんな専門的な部分にまで、親は気づけませんよ」
それはそうだ。しかし、だったら、なぜ総合得点だけで子どもを叱り飛ばす?
根拠不十分じゃないか。子どもの努力の有無、工夫の有無、実力の有無を判定する根拠を欠いているのになぜ叱り飛ばす? やはり愚かだ。
親は専門性がない。それは分かる。だったら、選択肢は2つだ。
1つは、専門的能力を自分自身に培い、その上で根拠を持って叱ること。
もう1つは、そのような能力がない以上下手に叱ることもほめることもできないと諦め、大きな気持ちで身構え、子どもにゆったりと向き合うこと。
私の塾にこれまで通ってきた生徒の親の中には、前者もいれば、後者もいた。
前者は前者で、尊敬に値する。なにしろ、進学塾のテストをすべて親自身が自分で解き、分析し、その上で家庭学習をサポートしていたのだから。
しかし一方、後者も後者で尊敬に値する。というより、親とは本来、後者の存在なのだ。
一番手に負えない厄介な親というのは、教えることもできず、子どもの能力・努力・工夫の有無を具体的に把握することもできないにもかかわらず、総合得点と偏差値の動向だけを見て、叱ったりほめたりする親だ。
むろん、ほめるのはまだいい。
許されないのは、そういった状態なのに叱り飛ばすことだ。
そして残念なことに、総合点と偏差値だけを見て子どもを叱り飛ばす親というのは、ほぼ例外なく、「手に負えない厄介なタイプ」なのだ。
そういう親の子は、「厳しい」親のもとで鍛錬されていることをありがたく思うようにして、乗り切っていくしかない。がんばれ、子ども。
ほめることが大切なのではない。
叱ることが大切なのでもない。
大切なのは、「見つめる」ことだ。
つまり、事実をとらえるということだ。
とらえた事実がほめるに値するのなら、ほめればいい。叱るに値するのなら、叱ればいい。事実をとらえもせず、ほめたり叱ったりしてはいけない。
テストを受けている場面でのわが子の姿を想い描き、そのときのわが子がどんな思考回路をたどったのかを、テストの問題用紙から見いだそうと心がけているような親のもとで育つ子どもは、幸せ者だ。
以上、2012/02/19の連続ツイート(一部修正)
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以下、2010/09/18の連続ツイート(一部修正)
目標に対する達成度を客観的に評価する上で、「点数化」は非常に有効な評定手段になり得る。
数値化する最大のメリットは、次の目標が明確になるということだ。60点だったら、次は65点や70点を目指せばいい。あと5点、あと10点のためにできることから始めればよい。
もしそれが数値によらない曖昧な評価だったら、そうはいかない。「だいたいよくできました」と言われても、あとどのくらいやればいいか、わからない。目標の立てようがなくなる。
数値評定は、目標を更新していくための有効な目安になる。
しかし、気をつけなければならないことがある。
数値評定というものは、あくまでも客観「的」なものに過ぎない。
逆に言えば、主観を排除し切れていないということだ。
かつて、ある公立中の中3生が、国語の定期テストの問題と答案を持ってきた。高校入試に影響する大切なテストだ。
平均は越えているがさほど好ましくない点数で、本人はブルーになっている。どれどれ、問題をみてみようじゃないか……。
するとどうだろう。
解答がひどい。つまり、評定の規準がひどい。
「――部はどういう意味か、説明せよ」という問いでは、極力「――部」の言葉を使わないで言いかえるのが常識だ。しかしその子は、ほとんど正解に等しい答案をバツにされた上、「――部の言葉が入っていないからバツ」と指導されたというのだ。
評定規準そのものが狂っているとき、「点数」は全く無意味になる。
いやむしろ、有害なものになる。
子どもに混乱を与え、子どもの努力と成果とを不当にマイナス評価する、恐ろしいギロチンとなる。
しかし! 親は、その点数を鵜呑みにする。
特に、総合点だけをみて、我が子の能力がその数値とイコールであると断罪する。
我が子を信じず、テストを盲信する。
まあ無理もない、親は専門家ではない。
「――部の言いかえの問題の解法なんて、知るよしもない。テストと点数を信じるしかないじゃないか」
そういう声も聞こえてくる。
しかし、「だから子どもを責めていい」という論理にはならない。
もしかしたら、テスト問題が、あるいは解答が、間違っているかもしれない。
そういう目線を心のどこかにいつも持っていられる親であってほしい。
問題や解答が正しいかどうかを判定できないなら、点数という評価が正しいかどうかも判定できないではないか。
点数こそ正義。
そういう目線しか持っていない親は、子どもを苦しめるばかりである。
一方、何が正義かは実は分からないから、我が子を不当に低く評価しないようにしよう、という心構えを持っている親は、子どもを救う親であると言えるだろう。
それにしても、学校の先生はもっと勉強した方がいい。
中学の先生も、もっとまともなテストを作れ、といいたい。
部活の指導ばかりに明け暮れず、本務に力を入れたらどうなのかと、しみじみ思う。