裁判員をえり好みする質問許さず 最高裁司法研修所

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080525-00000952-san-soci

“面接”は、申し出た辞退理由の適否や、不公平な裁判をする恐れがないかなどを判断する目的で行われる。候補者への質問は裁判長しか行うことができないが、検察側、弁護側双方は、必要と思われる質問をするよう裁判長に求めることになる。
一方、陪審制度を採用している米国では、一部の州の陪審員選任手続きでは検察側、弁護側も直接質問できる。その結果を踏まえて特定の候補者を陪審員に選ばないように求めることができるため、双方が自らに“都合のいい”と思われる陪審員を選ぶことを念頭に置いて質問することもあるという。

研究結果では「裁判員制度は無作為抽出を重視している。米国の陪審員の選任とは違う」とした上で、「候補者の人柄を細かく見ていいという制度にはなっていない」と指摘。「不公正な裁判をする恐れがあるかを判断する目的を超えた質問は許されない」と結論付けた。具体的には、ドメスティックバイオレンス(DV、配偶者間の暴力)が争点の事件で、「DVの経験がありますか」などの質問は認められないとみられる。

以前、ジーン・ハックマンが「陪審コンサルタント」を演じる

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id318914/

を観たことがありますが、映画であり誇張等もあり得るとは言え、コンサルタントが(こういう仕事が成り立っていること自体が驚きですが)陪審員の選定に細心の注意を払い、弁護士に裏からあれこれ注文をつけたりしていたことが思い出されました。
弁護人の立場では、検察官の起訴は正しいという「刷り込み」にとらわれる傾向がある裁判官に十分対向できるだけの知識や社会経験があり、警察、検察権力の危険性や人権の問題に敏感な、その意味での「良質な」裁判員を確保したい、というところです。逆に言えば、検察官としては、裁判官の言いなりになってうまくなびくような従順さを持ち、「警察や検察庁が間違ったことをするはずがない」「起訴された人は処罰されて当然だ」と思っているような、御しやすい裁判員が好ましい、と考えるでしょう(そこまで検察官に都合の良い裁判員がいるかどうかはともかく)。
司法研修所が言っているのは、あくまで建前であり、実際の裁判員選定手続では、いろいろな思惑が飛び交い、微妙な駆け引きが行われる、ということはあり得るでしょう。

ほのめかす供述

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080525#1211723142

の「ほのめかす供述」について、昨日のコメント欄で疑問が呈されていましたが、これは、一種の捜査用語で、通常の意味での「ほのめかす」とは、ちょっと違った使われ方をしていると思います。
正確な定義はもちろんありませんが、

具体的ではなく、曖昧な内容ではあるものの、概括的な自白に至っている、あるいは、自白に至りつつある

という場合もあり、また、実際には、

具体的、詳細に供述し、裏付けも取れている、あるいは、取れつつある

という状況ではあるものの、今後の「本件」での再逮捕前に、具体的、詳細な供述を得ている、というのは、種々の意味で問題があるので、警察、検察発表上は、「ほのめかしている」という表現で語られるという場合もあるはずです。
ほのめかす、というと、

刑事さん、もしかしたら私が犯人かもしれませんよ、ふふふ

という感じのほのめかしを、つい想像してしまいがちですが、実際は、徹底的に追及され、ほのめかすどころか泣きながら自白している、ということについて、「ほのめかしている」という表現が使われることは十分あり得ます。
マスコミは、注目されている点について自白しているかどうか、ということを聞きたがり、その点は公表しても良い、しかし具体的なことは言いたくない、言えない、という状況下で、「ほのめかしている」ということであれば、ほのめかす程度のことをそれ以上は言えない、聞けない、ということにもなって、発表するほう、されるほうにとって便利、ということもあるでしょう。
そういった、様々な思惑を込めて、「ほのめかす」という言葉は使われるものですから、この言葉の背景にあるものを推測するということも必要になってくることがあります。

TBSの元女子アナウンサー、川田亜子さんが自殺

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080526-00000917-san-soci

調べでは、車の後部座席に練炭2個が置かれており、川田さんが運転席に横たわっているのを会社員が見つけた。遺書は家族あてで、感謝の言葉をつづった内容とみられる。

驚きました。特にファンというわけではありませんでしたが、フリーになった元局アナ、美人アナということで、私も知ってはいましたから、なぜ、こんなことに、という思いがします。
フリーに転向し、いろいろと気苦労もあったのかもしれませんが、まだ若く、これから、という方なのに、残念ですね。ご冥福をお祈りしたいと思います。

志布志無罪国賠訴訟 「捜査は適正」国、県再び主張

http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10811

国は「無罪判決の確定によって、警察官や検察官の行為が直ちに違法とはいえない」とし、「証拠資料や供述などを総合的に見て、有罪と認められる嫌疑があった」と主張。県も「具体的な端緒情報など捜査を進める合理的根拠があった。嫌疑をでっち上げた事実はなく、取り調べも原告らの体調などに配慮した」と述べた。

現在、

「冤罪」を追え 志布志事件との1000日

「冤罪」を追え 志布志事件との1000日

を少しずつ読んでいて、半分くらい読んだところですが、そこから読み取れる捜査は、この種の捜査としては最悪、最低のものであり、上記のような主張をすること自体が、人間として恥ずかしいことだ、という気がするくらいです。
捜査機関自らが、こういった大失敗例の適切な総括ができない、ということにも、大きな問題を感じますが、今後、この分野で仕事をする人にとって、貴重な教訓が多く詰まった具体例であることは間違いないでしょう。

被告に死刑=長崎地裁「民主主義揺るがす」−弁護側は控訴・市長射殺事件

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080526-00000077-jij-soci

松尾裁判長は「被告は長崎市が自己の主張や要求を受け入れず、不満を募らせた。怒りを市長に向け、当選阻止も目的に殺意を形成した」と認定。大事件を起こし、自分の力や意地を誇示する意図もあったとした。
その上で「自分の思い通りにならない憤まんから市長殺害という暴挙に及んだ。行政対象暴力として類例のない極めて悪質な犯行だ」と指弾した。

今後、控訴審、上告審において、死刑の当否が慎重に審理されることになるはずですが、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080322#1206145360

でもコメントしたように、本件が、今後のこの種の要人テロに関する重要な先例になる可能性は高く、その意味で、非常に大きな意味を持つ判決である、と言えるように思います。
民主主義を守り抜くために、死刑というものを敢えて選択すべきか、民主主義が破壊され多くの人々が死に、あるいは様々な不利益が生じることを防ぐために、一種の「一殺多生」という観点から、死刑という究極の選択を敢えてすべきなのか、といった根源的な問題もあるでしょう。