東京は早稲田に、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)があります。

文字どおり“戦時性暴力に特化した記憶と活動の拠点”です。

その活動については、前回までお話を伺ってきた野口千恵子さんから説明を受けていました。

現在は、HPのトップ(http://wam-peace.org/)にあるように、

“戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館”として、

昨年8月から今年7月末まで、「第15回特別展 国家に管理された性 日本人『慰安婦』の沈黙」

を開催中です。

 

そこで、昨年末、2015年の日韓合意が反故にされてから

両国の幸せな未来が見えない現状を直視したいと思い、

日本で唯一といっていいほど慰安婦問題について確かな情報を発信し続けている

とされるwamに2月下旬行ってきました。

 

入り口から圧倒されました。

壁面いっぱいに掲げられた女性たちの顔、顔、顔。

コーナーを区切って、年表形式、あるいは漫画でわかりやすく語られる慰安婦の歴史。

釘付けになって読んでも読んでも時間が足りません。

生々しい証言によって、いかに卑怯な手口が使われ、国家あるいは軍部など統制の下、

慰安婦の管理が実行に移されたのかが記されています。

展示を前に二度とこのような過ちを犯してはならないと、立ち尽くすしかありませんでした。

 

そして気づきました。私が慰安婦問題を追いかけるきっかけになった

西小倉にあった慰安所(ブログ#1)とは、

特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association : RAA)だったのだと。

 

戦後、日本政府が進駐軍向けの性の防波堤として、

慰安婦と慰安設備を全国各地に設けた、その一つだったのです。

たしかに、小倉には陸軍の駐屯地も工場もありましたし、重要な拠点でした。

 

でも、さらに私は初めてお会いしたwam事務局長の渡辺美奈さんから驚くべき話を聞きました。

「八幡製鉄の裏の遊廓にも、兵隊は来ていた」と。

そこに入れられた被差別部落の女性の証言を得ているそうです。

 

なるほど、八幡は米軍が核兵器を落とそうと画策した第1目標の土地であり、

戦後も進駐軍が出入りしていたには違いない官営八幡製鐵所(現在の新日鐵住金株式会社)の

お膝元でした。

2015年世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の

構成資産の一つが、1901年に操業を開始した官営八幡製鐵所であり、

旧本事務所は町のシンボル的存在でした。

その周辺は戦後の高度成長期の活況を享受し、

商店街は大いに賑わっていたことを町の高齢者は懐かしく覚えており、

私もよく聞かされていました。

 

だから、思い当たる節もあります。

その昔、町の一角には色街もあったと聞いたことがあったので、

布団屋だけではなく商売をしていた人たちは少なからず実情を知っていたでしょう。

しかし、平成のこの時代、一体どれほどの人が記憶しているか。

忘れ去りたい負の遺産かもしれませんが、平和を願うならば反面教師として

「だからこそ記録しておかねばならない事実」かもしれず、

風化させてはならない地元の歴史があるのだと思い知りました。