簡略化して言うと、英語の文章を日本語の文章に変換する機械翻訳の仕組みを作ろうとしたときに、英語や日本語の文法構造や語彙体系というものをプログラムで記述しようとするのが前者のアプローチ。
簡略化して言うと、英語の文章を日本語の文章に変換する機械翻訳の仕組みを作ろうとしたときに、英語や日本語の文法構造や語彙体系というものをプログラムで記述しようとするのが前者のアプローチ。 それに対して、英文とそれを翻訳した日本語文のペアを大量に用意し、ある規則に従って数値データに変換した上で、数値と数値の間にある対応関係を統計的に探索しておき、新しく現れた英文にその対応の傾向を当てはめて、「統計的にあり得そうな日本語文」を出力させるのが後者のアプローチです。 後者のアプローチも、たとえばディープラーニングとその類似技術に関して言えば、構造を無視するというよりは構造を自動的に抽出していると言ったほうが正確なのですが、そこで抽出されるのは数値データと数値データをうまく結びつける構造であるというに過ぎず、実際の心の構造に対応しているかどうかは問われないわけです。言ってみれば、後者のアプローチは単なる「効率の良いデータ整理器」であって、これで「人間の知能」に近づくことは難しいと私は思います。 《飛躍の多いAI論》 しかし、「だからAIなんて大したことない」と言えるかというと、そうでもありません。心の構造とは異なる仕組みであっても、心の動きをそれなりには──場合によってはかなりの程度──模倣できてしまうからです。人間を完全に代替することができなくても、例えば今まで5人でやっていた仕事が2人で回るようになるのであれば、3人分の雇用は失われるわけで、経済的には大きなインパクトがあり得ます。今のAI技術にも、その程度のパワーなら発揮できる場面はたくさんあるでしょう。 一方で、AIが社会にもたらすインパクトの大きさについての巷間の議論には、飛躍したものが多いことも確かです。 AIの発展で必ず皆が幸せになるかのような議論はもちろん論外ですが、AIによる労働の代替が極端な格差社会をもたらすのだという議論にも違和感があります。経済格差がどの程度であるべきかというのは、我々が自らの価値観に沿って判断し、それに従った社会制度を構想すべき問題であって、技術が全てを変えてしまうと騒ぐのは短絡的です。 以前もこのメルマガで書いたように、新自由主義的経済システムの下で破壊的イノベーションが続けば格差は拡大するでしょうが、新自由主義はべつに宿命でも何でもなく、我々にはそれを捨てることが可能なはずです。AIが格差をもたらすかどうかというよりも、格差社会を容認するかどうかという、我々の「価値観」や「選択」が問われているのだと考えるべきです。 また、高度なAIが暴走すると人類にとって脅威になるのではないかというSF的な懸念もありますが、そもそもAIに限らず多くの技術には暴走の危険があることに留意すべきです。コンピュータ・ウィルス、核兵器、環境を汚染する化学物質など、危なっかしい技術はいくらでもありますし、破壊された生態系を元に戻すのが人間には難しいというように、既に取り返しのつかない暴走が色々なところで生じていると言うべきかも知れません。 私は、「他の技術にも危険があるが今のところ何とかなっているのだから、AIだって大丈夫なはず」と楽観論を唱えたいのではありません。そうではなく、そもそも我々は、簡単に制御可能で楽観できる世界を生きてなどいない、と考えるべきだということです。技術文明は多くの恩恵をもたらすと同時に危機に満ちたものでもあるのであって、AIの危険性だけをことさらに叫ばれると、その他の技術がもたらす危険に対して鈍感なのではないかと思わざるを得ません。 《哲学的AI論》 ところで、今のAIはいわゆる「流行りもの」(今は「第3次AIブーム」であると言われます)ですから、技術的な関心を除けば巷の「AI論」には下らない議論が目立つのですが、中には非常におもしろいものもあります。 1950年代から60年代にかけて「認知革命」と呼ばれる学問上の運動があり、心理学・言語学・計算機科学などが大きく発展したのですが、その頃に「第1次AIブーム」がありました。そしてその当初から人工知能研究には、「人工知能の設計を通じて、人間の知能の仕組みを理解したい」という動機もあったようで、この動機は哲学にも近いと言えます。 先ほど、数値と数値の対応関係だけを考える機械学習的アプローチのAIが今は流行っていると述べましたが、専門の研究者に言わせると、それはAI研究の潮流の中では少数派に属するらしい。むしろAI研究の本流は、人間の心・意識・思考の構造を探求した上で、それをプログラムとして実装しようという営みだったようです。 そういうアプローチに基づくAI研究の系譜とその限界、そして限界の乗り越え方を哲学的に論じた、三宅陽一郎氏の『人工知能のための哲学塾』という本があります。この本は、「人間のように考える人工知能を作ることは可能か」という問題を哲学的に考えたい人にとっては
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