明治6年現在のグレゴリオ太陽暦にする以前は、中国原産の太陰太陽暦を使っていました。これが旧暦です。
改暦以前から存在した行事は、旧暦に従って行われていたのですから「もともと旧暦の月日の行事だ」というのは当然のことです。
その論理でいえば1月1日正月元日の行事も、もとは旧暦1月1日の行事なのですが、それをいう人はあまり見かけません。
旧暦は太陰暦、すなわち月の満ち欠けの周期(29.503日)を1ヶ月とする暦で、1ヶ月は29日(小の月)か30日(大の月)のいずれかです。これだと1年が354日になり、太陽暦(平均365.242日)より11日短く、その分季節が早く進んでしまいます。
純粋な太陰暦のイスラムヒジュラ暦では約17年で夏冬季節が逆転します。それがイスラム暦のルールなのですが、農業暦としてはまったく使えません。旧暦は太陽年の基準で、この進み過ぎを調節する仕組を持っていて、19年に7回の割で閏の月を挿入し、進みすぎた季節を戻します。
簡略化していうと1年で11日、丸3年で33日進み過ぎたところで、閏月30日を入れれば、33日離れた太陽暦との差が3日に縮む、という手法です。ベースは月齢基準の太陰暦ですが、太陽暦基準で閏月の挿入をルール化し、太陽暦との誤差を前後に戻すことから太陰太陽暦といわれるのです。旧暦の年の日数は平年で354日、閏月のある閏年には383か384日になります。
この旧暦における太陽暦基準というのが二十四節気といわれるもので、太陽の運行に基づいた回帰年を夏至点と冬至点で2分割、さらに春分点と秋分点で4分割、もっと均等割りして12の節気と12の中気からなる24の節気を定めたのです。
二十四節気は太陽暦基準ですから毎年ほぼ不変で、これと太陰暦による月日の進みとの乖離が一定範囲を超えたとき、閏月を挿入する仕組としたのです。この二十四節気は太陽暦基準なので現代の暦にも引き継がれ、春分と秋分は休日になりました。冬至や夏至は誰でも知っています。立春前日の節分なども豆まきで知られています。
旧暦では年によって季節が1ヶ月近く変動する太陰の月日ではなく、太陽暦の二十四節気を基準に農業を行っていました。
さて、七夕ですがこれは中国伝来の五節句の一つで、3月3日(上巳)5月5日(端午)9月9日(重陽)などと並ぶ節日です。
したがって昔は旧暦の7月7日に行われていました。明治6年の改暦で旧暦がグレゴリオ暦に変わると、これらの年中行事はすべて、グレゴリオ暦の同月同日に移行させました。
グレゴリオ暦の1月1日はキリスト生誕から8日目という伝説の基準で定められています。(もとはは冬至が基準点だったようですが)
旧暦はその発祥の地、黄河中下流域で、最低気温が底を打ち、気温上昇期となる二十四節気の立春前後の新月(月齢0日)が、1月1日となるように設定されています。
日本では立春(現在暦2月4日か5日)はまだまだ極寒が続き、春が立つなど、実感できません。それは中国産暦の日本へ直接適用が無理なせいです。
立春や小雪、大雪なども日本の気候には合いませんが変更なしで二十四節気は使われました。しかしさらに細分化した七十二候では日本流の季節感を取り入れて変更を加えています。
そんな旧暦ですが、明治の改暦で、旧暦と新暦との月日における季節差は一月から二月近くもずれてしまいました。
このために、新暦の同月同日に移行した年中行事の中には、それで行事をすると都合の悪いものもでてきました。
また古式の伝統行事を無理矢理新暦に移すのにも抵抗があり、旧暦での行事実施は地方によって永らく保たれてきました。
しかし、旧暦の同月同日は、太陽暦上の一ヶ月近くの期間を毎年移動します。
旧暦7月7日の七夕が、2006年は7月31日、2007年は8月19日、2008年は8月7日、2009年は8月26日、というように。
新暦上に毎年固定できないのは何かと不便、ということで考え出されたのが月遅れで行事をするという簡便法です。
新暦7月7日の七夕を丸1ヶ月後ろにずらして8月7日にすれば、旧暦を新暦に置き換えた期間内に入るので、大雑把に雰囲気が合いそうだ、という感覚で便宜的に行われるようになったのです。
その代表例が8月15日の月遅れ盆です。旧暦7月15日だと今年は9月3日で、学校の夏休みも終わって帰省には不向きです。
月遅れというのは農繁期で忙しいなどという事情から便宜的に生み出された方法なので、すべての行事を月遅れでするという一貫した法則はありません。
この月遅れのことを旧暦と勘違いして使っている人が多いせいで、訳が分からなくなる人もいます。