黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

本当の「反省」とは何か

2013-04-17 20:32:37 | 法曹人口問題・法曹養成制度総論
 法曹養成制度に関し,郷原信郎弁護士が4月14日付けで公表した『法曹養成改革の失敗に反省のかけらもない「御用学者」』という記事が話題になっています。

 郷原弁護士の記事は,大変に激しい勢いで政府や学者を批判しているため,かねてから司法改革に批判的だった論者からは概ね好意的に評価されているようですが,黒猫としてはあまり高く評価する気にはなれません。なぜなら,政府の政策決定に関わってきた「御用学者」を痛烈に批判する一方で,郷原弁護士自身の言い分は,結局自ら批判している御用学者の言い分と大きく変わらないからです。

 例その1。
「合格者が2000人にとどまっているのは、司法試験で客観的に能力を評価、判定した結果だというのが法務省側の説明だ。しかし、果たして、司法試験による選別が、本当に、法律家として社会の要請に応えられるかどうかの判定として正しいと言い切れるのであろうか。私の法科大学院の教員としての経験から言えば、司法試験に合格した修了者の中には、実務家としての能力・適性に疑問を持たざるを得ない者もいる一方で、最終的に司法試験に合格できず法曹資格を取得できなかった修了者の中にも、法律実務家としての十分な能力・資質を持った者も少なからずいた。」

 郷原弁護士はこのように主張していますが,司法試験に合格できなかった修了者について,法律実務家としての十分な能力・資質を持っているというのは,一体誰が,いつ,どのように判定したのでしょうか。誰しも,自分の教え子の能力はひいき目に評価する傾向があるので,郷原弁護士自身が,自分の教え子についてそう評価しているというのであれば,客観的な信用性はゼロです。また,修了者が就職して企業の法務部門などで活躍している場合でも,法曹の仕事と企業法務の仕事に求められる能力や適性にはかなりの違いがあり,法曹として十分な能力・資質を備えていることの証明にはなりません。
 現在の司法試験は,旧試験時代より合格ラインが相当低くなっており,法曹として十分な資質・能力を持った人が適切な指導を受けて学習しても三振を余儀なくされるような試験ではありません。それでも十分な資質・能力を持った人が合格できないということは,要するに教える側に問題があったということです。
 郷原弁護士は,司法試験について実務経験者の受験枠新設を主張したり,司法試験が適切な選別機能を果たしていないと主張したりしていますが,結局は自分の教え方のまずさを司法試験に責任転嫁しているに過ぎません。そして,郷原弁護士が痛烈に批判している法務省の御用学者,法学の世界の大御所と呼んでいる人物は,記事の内容に照らし刑事訴訟法の井上正仁教授(元東京大学教授,4月から早稲田大学教授)と考えて間違いないでしょうが,その井上教授も,法曹養成制度検討会議などでは,司法試験のあり方に疑問があるなどという趣旨の発言を繰り返しています。
 人間社会のやることに完璧なものなどそうそうありませんし,黒猫自身も現在の司法試験が完璧な選抜機能を果たしていると思っているわけではありませんが,試験制度というものは,長年にわたり多くの人の叡智が積み重ねられた結果,完璧ではないにせよ相当程度の能力や適性を判定し得るものとして作られてきたものであり,それを抜本的に変えるというのは,現行制度の問題点についてかなり多くの人が綿密な検討を行い,かつ試行錯誤を繰り返した上で,ようやく改善が望めるかどうかというくらい難しいものです。
 大学入試についても,一時期受験競争の弊害が著しいなどと散々に批判されましたが,それを是正する手段としていわゆる「ゆとり教育」が導入され,多くの大学で入学試験を経ない推薦やAO入試などが広く行われるようになったところ,若者の学力水準は相当に低下し,また大学受験を経なかった大学生は学力にも精神力にも問題があるなどとして,企業での採用は敬遠される傾向にあります。
 郷原弁護士は,かつて実務経験者の受験枠新設を主張されたようですが,実務経験者は司法試験にも合格しにくく,合格しても高齢のため法律事務所への就職も難しい傾向にあります。また,現在の法曹界は,旧司法試験でも合格したであろう人,すなわち司法試験の合格順位が高い人を優先的に採用する傾向にあります。そんな中で実務経験者の特別枠を作ったところで,特別枠の合格者が全員就職できなくなるのは目に見えています。
 井上教授もそうですが,今の司法試験をどのように変えればよいというのか何ら具体的な定見を持っていない人に,今の司法試験を批判する資格はないと思います。

 例その2。
「「社会的要請に応えること」をめざしていく場合は、法律家には、従来とは異なった重要な役割が期待されることになります。それは、一言で言えば、個人や組織が法令を使いこなすことをサポートしていくことです。法令と社会的規範の相互関係を把握し両者のインターフェース(接点)の機能を果たしていくことです。」

 郷原弁護士はこのように主張していますが,わが国における法令と社会的規範の相互関係を把握するというのがどれほど難しい作業であるか,具体的に考えたことがあるのでしょうか。
 わが国の法令と社会的規範には,もとより相当の断絶があります。江戸時代までは,民間同士の紛争に裁定を下すことも犯罪者に刑罰を命じることも役人の重要な仕事であり,そのために必要な法令も,わが国の道徳や社会的規範を考慮して定められていました。徳川吉宗の命により作成された『公事方御定書』などはその典型例ですが,明治時代のわが国では欧米諸国に不平等条約の改正を認めてもらうため,新たに西洋式の法令を定めることを余儀なくされ,大日本帝国憲法(明治憲法)や民法,刑法といった近代法の基礎となる法律が,主にフランスやドイツのものを参考にして制定されました。
 当然ながら,西洋流の新たな法令に,江戸時代までの法令や社会的規範を考慮する余地はほとんどなかったため,新たな法令と伝統的な社会的規範の乖離はその後も長く残りました。例えばわが国では,店員がお客様に礼儀を尽くすのは当然のことと考えられていますが,フランスでは店員と客の立場は対等であり,客に礼儀を尽くすという発想はありません。そしてフランス法の強い影響を受けて作られたわが国の民法では,店員と客の立場はというより,あらゆる人の立場は対等とされており,これは現在でも変わっていません。わが国で弁護士の態度が悪いとか社会常識を知らないとか言われるのも,あるいはこの辺に原因の一端があるのかも知れません。
 なお,今日では社会の価値観が極めて多様化している上に,国際的な経済活動の比重が増加しており,日本国内のことばかりを考えて法令改正を行える状況ではなくなっているため,法改正等により法令と社会的規範の乖離を防ぐことは極めて困難になっているという点も指摘しておく必要があります。

 そして,郷原氏の指摘に関連する事項として,わが国における司法権の機能についても触れておく必要があります。
 江戸時代までのわが国では役人(行政官)が司法の役割も併せ担っていたところ,明治時代には西洋の影響を受けて,突如行政から独立した「司法」という政府機関が創設されるに至りました。当然,何の権威もない新たな機関のお裁きでは誰も従ってくれませんので,明治憲法では「司法権は天皇の名において法律により裁判所がこれを行う」ものとされ,天皇による権威付けが行われました。
 ところが,日本国憲法の時代になるとGHQの指令により天皇の権威付けも取り払われ,新たな統治原理である国民主権との関係も曖昧なままに,中途半端な独立性を保障された裁判所だけが「三権」の一翼として残されました。
 日米安保条約の一件からも分かるとおり,政府のやることに正面から反抗すれば,国家権力としての基盤が弱い司法などあっという間に潰されてしまう,かといって政府のやることに何でも唯々諾々と従っていたのでは,国民に司法の存在意義がないと言われてしまう,そんなジレンマの中で巧妙に政治的バランスを取り続けてきたのが,戦後のわが国における最高裁及び司法の実態です。
 法令と社会的規範との乖離が大きく,国の機関としては予算面での独立性も保障されていない司法権が,郷原氏の指摘するように社会の周辺部分でのみ機能するものとなってしまったのは,ある意味当然の結論であったとも言えます。
 ただし,郷原氏が現代の司法を水戸黄門のドラマに例えているのは誤りですね。黄門様は絶対的な権威を誇る江戸幕府の重鎮であり,だからこそ葵の御紋が入った印籠に誰もがひれ伏し,また自ら解決に乗り出そうと思えば大抵のことは解決できるわけですが,現代の司法にはそのような権威の裏付けがなく,最高裁の判決にも「司法権の行き過ぎだ」とか平気で言われてしまうことが,いわば最大の問題点なのですから。

 ちなみに,司法権の機能や法令と社会的規範との関係について,日本と対照的な存在はイスラム諸国です。イスラ-ム法の世界では,預言者ムハンマド(マホメット)の残したイスラム教の聖典クルアーン(コーラン)がそのまま憲法の役割を果たしており,クルアーンに書かれていない事項については,預言者ムハンマドの遺した言行(スンナ)が法規範とされています。イスラームの法学者はクルアーンやスンナに基づいて,国家運営のあり方から個人の行為に至るまでのあらゆる法解釈を行う職業であり,いわば宗教的権威と法的権威を併せ持っている存在です。
 もっとも,千年以上も前の人が遺した法規範では,さすがに運用上無理が生じてくるのも当然です。現代の欧米諸国から見ればイスラーム法は人権侵害の塊であり,また国際会計基準に至るまで神の教えに従って判断しなければならないという主張は,イスラム教徒以外の人にとっては冗談にしか聞こえないでしょうが,イスラム教徒にとっては極めて真剣な問題です。もっとも,すべてをイスラーム法で解決するのはさすがに無理があると考える人も多く,イスラーム法をどの程度尊重すべきかはイスラム諸国の間でも判断が大きく分れているのが実情ですが。
 イスラーム法ほどではないですが,西欧諸国の法は古代のローマ法がキリスト教の影響を受け,さらにキリスト教の影響を克服するために生み出された様々な人権思想の影響を受けて変遷していったものであり,少なくとも日本法よりは,法令と社会的規範の関係性は強いといえます。日本法と仏教,神道,儒学とは,いまや全くと言ってよいほど無関係ですからね。

 諸外国との比較的な話はこのくらいにしますが,このような沿革の元に成り立っている司法の立ち位置を変革し,司法の影響力を強化するという取り組みは,憲法改正はもとより司法のあらゆる枠組みを変えなければ実現が望めるものではなく,しかもそれが一般国民の利益につながるとは限りません。
 例えば,自由民主党などが行おうとしている憲法改正は,法令と社会的規範の乖離を解消するために,自らの理想と考える社会的規範を憲法に書き込み,それを基にした新たな社会秩序を創設しようとしているとも評価できますが,そうした社会的規範の実行を強制する機関として司法権力が強化されるのであれば,司法権も一般国民を抑圧する機関にしかなりません。
 また,法曹の力が強いアメリカでは,企業や国民が日本人とは比べものにならないほど司法への出費を余儀なくされており,法曹はいわば国民からの搾取によって,その強大な権力を維持しています。司法の役割を大幅に拡大させようとした司法制度改革が無惨な失敗に終わった最大の原因は,日本国民のほとんどがアメリカのような司法権の強化を望んでおらず,しかも司法の役割強化によって国民にどんなメリットが得られるのか,国民の納得するような説明が何一つなされていなかったからです。
 司法制度改革を推進してきた日本の「御用学者」たちは,そもそも本気で抜本的な司法権の強化を目指していたわけでもなく,単に法科大学院制度を設けることで法律学者の法曹界に対する発言力を強化したかっただけであるため,改革の目的も「日本社会のあらゆる部分に法の光を」云々といった極めて抽象的な説明しかしてこなかったわけですが,郷原弁護士のいう法曹資格者のニーズ拡大というのも,具体的なビジョンを欠く抽象論という点では「御用学者」たちの言っていることと大差ない,というのが正直な感想です。
 しかも,御用学者を痛烈に批判している一方で,極めて不十分な内容と思われる今回の『中間的取りまとめ』については,「概ね,(郷原氏自らが深く関与した)総務省の政策評価における勧告内容に沿ったものだ」と評価しています。
 総務省の政策評価は,もともと法科大学院の廃止論にまで踏み込んだ勧告をしようとしていたところ,文科省からの強い横槍が入って後退したという経緯があるため,郷原氏自身が『中間的取りまとめ』をどのように評価しているかは,この文面からは必ずしも明らかではありませんが,仮に政策評価の勧告が概ね容れられたことで満足しているのであれば,郷原氏自身の立ち位置も「御用学者」達と大して変わらないものと言わざるを得ません。

 法曹養成制度改革の失敗については,もちろん郷原氏も言っているとおりきちんと関係者に責任を取ってもらいたいところですが,責任の所在はどうあれ,中国の文化大革命や太平洋戦争のインバール作戦にも例えられる司法制度改革の大失敗によって,わが国の法曹界が深刻なダメージを受けたことは事実であり,少なくとも当面は,法曹の役割拡大などと絵空事を描いている余裕はありません。国民に信頼される司法の質の向上,司法試験合格者の質の向上こそが何よりも急務であり,そのためには阻害要因となっている法科大学院制度を早急に廃止する必要があります。
 本を書いて印税収入を得ている批評家としては,一般人には理解できない細部に至るまでこの国のあり方を真剣に検討するよりも,大上段から現代社会のあり方を痛烈に批判して理想論を描いた方が,現状に不満を持つ民衆からの受けが良く本も売れるのでしょうが,あるいはこういう人が未だに日本社会の論壇を支配していることこそ,日本社会の「残念な現実」と言えるのも知れません。

24 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-04-17 23:56:56
司法改革で唯一成果があったとしたら、
学者(特に法学者)はバーチャル(学説)の世界に置いておいて、決して現実社会に関わらせてはいけないって教訓が得られたってことかな。

学者は研究室で生きよってことだね。外に出てこないで、求められた時だけ研究室から意見書を送る程度にしてほしいね。

もう二度と現実社会の制度設計に関らないでほしい。
Unknown (Unknown)
2013-04-18 00:18:30
そんなちっぽけな成果を得るのにかかっちゃいましたね。というか,まだ血は全然止まってなかった。
Unknown (ひとこと)
2013-04-18 11:04:33
本当に司法制度改革は法学者が主導したんでしょうか?
むしろ、本当に司法制度改革を欲していたのは自分の子どもに後を継がせたい弁護士たちで、法学者は利用されただけなんじゃないでしょうか?
旧司法試験なら、子どもに後を継がせたいと思ってもそう簡単にはできません。でも新司法試験なら、順位が2000番でも合格は合格、めでたく弁護士資格がもらえる。親が弁護士をやっているのなら、順位が2000番でも就職に困ることはありません。

司法制度改革がどういう力によって進められたのかをもっと分析しないと、単に「文句を言いやすい相手に文句を言う」だけのことに終わってしまいます。
Unknown (Unknown)
2013-04-18 17:21:36
子どもに跡をつがせたいと思う弁護士は相当数いたと思うけど,合格者を何千人にも増やしても我が子だけは安泰と思っていたのんきなひとはほとんどいないでしょう。
医者と違って弁護士の営業基盤は相当弱いことの自覚はあったと思いますよ。
現に医者でいう開業医クラスの中小規模の弁護士はベテランでもいま直撃受けているのでは。
浅いよ。 (Unknown)
2013-04-18 21:42:46
いや、そんなにいないし、少なくとも日弁連全体を動かす勢力にはならん。

人が動くのは理念とか理想とか、根っこのない盲信的正義感なんだよね。

学者だって、自分たちの研究成果が反映されるようになれば、停滞している司法界が良くなると思ったし、そのためには大学が生き残れる必要あると思ったんだよ。
弁護士だって、法曹一元が実現したり、弁護士の人権思想が広まると思いこもうとしたんだ。

制度が純粋な悪意で動くなんてゴシップの世界だけだよ。ほんとどが大義名分を掲げて盲信する宗教みたいな原動力で動くんだよ。
Unknown (Unknown)
2013-04-18 21:59:52
組織の中で「仕組み」を作り、運用した経験がない人が仕組みを作ろうとするとたいてい失敗しますよね。
「研究」ではすでに出来上がった仕組みを分析しているわけで、新しい仕組みを作り上げたり運用したりはしていません。

無能な指揮官が戦略上の失敗をずっと認めていない場合、全滅の可能性が高くなります。
本来なら失敗を確認する前に、より成功の確度が高い戦略を採用するべきだったのでしょうが、このような局面になった以上、少しでもダメージを減らすための戦略に切り替えるべき、ということなのでしょうね。
Unknown (ひとこと)
2013-04-19 06:09:36
<今の時点で、>「盲信的正義感」から法科大学院制度を支持している人なんているのかな。

そりゃ、制度が始まる前には、合理的根拠のない漠然とした期待感を持って制度を支持していた人もいっぱいいるでしょう。しかし法科大学院制度の現実が明らかになった現時点で、そういう人は何人残っていることやら。
Unknown (Unknown)
2013-04-19 07:51:55
建前というか言いわけでしょうな
Unknown (Unknown)
2013-04-19 07:54:06
制度設計する側の人が動くのは理念とか理想とかの大義名分の裏にある利権

それに騙されて踊らされる人がいるだけの話
Unknown (Unknown)
2013-04-19 10:04:12
はじめた動機なんて正直どうでもいい。
利権とか都市伝説は立証しようがないからね。

それより、失敗が明らかなのに、責任問題や名誉、サンクコストを重視して、撤退できない方が重罪。
損害を減らすために撤退する勇気だよ。

こっちは、今、目の前にある現実だからね。