脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「働くこと」と「食べること」

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当たり前だが、生きるためには「食べること」が必要不可欠だ。基本的に人間は食事をとらずに生きていくことはできない。そして、自給自足でもしない限り、食べ物を入手するためにはお金が必要で、多くの人はこのお金を労働によって得ている。

 

そういう意味で、「働くこと」と「食べること」は、かなり近い距離にある。「なぜ働かなければならないのか」という問の、もっとも原始的でシンプルな答えは「食べるため」である。実際、働いて独立生計を立てることを「メシを食う」と表現したりすることもある。(異論がある人もいるだろうけど)僕たちは、基本的に「食べるため」に働いているはずだ。

 

しかし、この国では、どうもこの基本的な関係が崩れているような働き方をしている人が多すぎるような気がしてならない。「食べるため」に「働く」はずが、「働くこと」で(まともに)「食べられなくなっている」のだ。

 

いきなりだが、ひとつ質問をしたい。あなたは平日、大体何時ぐらいに夕飯を食べているだろうか?「毎日18時とか19時には自宅に帰って、それから家族と一緒に夕食を食べている」と答えられる人はあまり問題がないと思うが、「家に帰るのが深夜なので、適当にコンビニで買って寝る前に食べている」とか、「帰るのが遅くなると、食べる気力が無くて抜いてしまうことも多い」とか、そんなふうに答えるしかない人もいるのではないだろうか。

 

「仕事」のせいで夕飯が食べられなくなった、というのは「働くことで食べられなくなった」パターンの典型であるが、毎日夕飯自体は食べられていたとしても、それが健康的な時間に取られたものでなければ「まともに食べられている」とは言いがたい。残業がデフォルトな働き方を強いられている日本の会社員は、夕飯を17時とか18時に自宅で取れないことにもう慣れきってしまっているのかもしれないが、よく考えてみると、これはかなり異常である。毎日のように21時以降に夕食をとるのは、健康のことを考えると絶対によくない。

 

僕の父は、僕が幼い頃は大体毎日22時から23時ぐらいに家に帰ってきて、それから夕食をとっていたが、この光景は幼い僕にはかなり異常に見えたものである。父以外は、家族全員19時には食事をしていたので、なぜ父だけはこんなに遅くに食べているんだろうか、体に悪くないのだろうか、といつも疑問に思ったものだ。いつしか自分が働くようになって、19時には帰宅できないような生活をするようになり感覚が麻痺していたような気がするが、これは子供時代の僕の感覚のほうが正しいはずだ。22時とか23時に毎日夕飯を食べているような生活は絶対におかしい。そんな生活は、人間的とは言わない。

 

「働くこと」は「食べるため」に行なっているはずだが、その「働くこと」が肥大化しすぎてそもそも健康的な時間に「食べる」ことが阻害されたり、あるいは「食べること」自体を諦めざるを得ないような状況(忙しくて昼ごはんが食べられなかったり、帰宅が遅すぎて夕飯を食べる気力が起きなかったり、あるいは睡眠不足で朝ごはんを食べる時間が無かったり、「会社員」は気を抜くとすぐに「食べること」ができなくなる)が生じるのは、本末転倒である。おまけに、多くの人は自ら望んでそんな食生活に陥っているのではなく、やむを得ずそのような食生活を強いられているのだ。

 

「ご飯を食べる」とか「ゆっくり寝る」とか、そういった人間的な活動の根幹をなすものが「仕事」によって奪われているのだとしたら、そこまでしてしなければならない「仕事」とは何なのだろうか。大げさな言い方をすれば、僕たちは命を削って働いるのである。「仕事」に、果たしてそこまでの価値はあるのだろうか。一度、考えなおしてみてもよいのかもしれない。

 

きのう何食べた?(1) (モーニングKC)

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