お小夜塚

【おさよづか】

この塚は世界遺産登録の五箇山にある。しかし合掌造りの集落とは異なる地域で、一時代昔の農村風景と言ってもおかしくないような場所にある。

五箇山は今でも秘境という印象があるが、昔から人が通えないような土地として、加賀前田家の流刑地にされていた。この塚の主のお小夜も、加賀藩の罪人としてこの地に連れて来られた一人である。

お小夜は能登門前町の貧農の家に生まれ、13歳の時に近くの輪島にある素麺屋へ奉公に出された。そして18で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。

当時の金沢では遊郭の営業は認められていなかったが、お小夜の雇い主は、加賀藩士の高崎半九郎らと結託して密かに出会茶屋を経営していた。それが発覚したため高崎らは流刑、商人らも極刑などに処せられたのであった。そして店で働いていたお小夜ら遊女20名も流罪と決まったが、決まった流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、一人五箇山への配流となったのである。元禄3年(1690年)、お小夜が21歳の時であった。

五箇山でのお小夜の待遇はそれほど過酷ではなかった。監禁されることもなく、集落内は出歩ける自由もあった。そのうちお小夜は遊郭で習った歌や踊り,三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落になじんで暮らすようになったという。

比較的自由な生活をしていたお小夜は、村の若者・吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もってしまったため、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも子をなすことも御法度であった。このままでは村にも累が及ぶと思い悩んだお小夜は、とうとう庄川へ身を投げて死を選んだのである。

現在、五箇山に伝わる民謡に“お小夜節”がある。お小夜の不幸を哀れんだ村人達が歌い出したものであるという。さらに五箇山の代表的民謡の“五箇山麦屋節”も一説では、輪島の素麺屋で覚えた歌をお小夜がもたらしたものであるとも言われている。「民謡の宝庫」と呼ばれる五箇山にあって、お小夜はなくてはならない人物なのである。

<用語解説>
◆五箇山
集落の始まりは、倶利伽羅峠の戦いで源氏に敗れて逃げ落ちた平家の落人であると言われる。また南朝遺臣が現在残されている風習をもたらしたともされる。江戸時代は加賀藩の所領となり、流刑地であると共に煙硝の生産地として外との接触が極力抑えられてきた。平成7年(1995年)に合掌造りの集落として白川村と共に世界文化遺産登録。

アクセス:富山県南砺市小原