北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

■モリケンイチ個展 トワ・エ・モワ(アナタとワタシ/アナタはワタシ) 2017年4月4~16日、札幌

2017年04月16日 18時26分00秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 2月の茶廊法邑に続き、はやくも今年2度目の個展を開いている札幌の画家モリケンイチさん。
 ご本人は「それほど毎回違うテーマでやってるつもりはないんですが」とおっしゃいますが、そのつど大半が新作で、テーマに沿った絵をそろえてくることには驚かざるを得ません。
 しかも、ご本人にお話をうかがえば、それぞれの絵にこめられたメッセージの膨大さにあらためてびっくりさせられます。コンセプチュアルな点は、現代アート的であるといえるかもしれませんが、どの絵も「コンセプトの絵解き」にとどまってはいません。一部のつまらない現代アートとは違って「解釈オチ」の作品ではけっしてないのです。
 モリさんの解説を知らなくても、なぞめいたそれぞれの絵を前にして、すこしの時間考え込めば、それぞれの解釈が得られるでしょうし、もちろんそれが「間違い」ということにはならないでしょう(アートは、学校のテストではない)。
 さらにいえば
「この女の子、壇蜜みたいでかわいいな」
で終わってもオッケーな絵でもあるのです。
(じっさい、サラリーマンのおじさんが登場する絵を「これが好評なんで、毎回出してるんですよ」と笑いながら説明してくれるモリさんを見ていると、その水準の鑑賞がむしろ正しいのではないかとさえ思ってしまうのです。笑)

 筆者はむろん、構図や色彩のことだけを考えて絵を描いている多くの画家たちを見下しているわけではありません。モダニスムとは、なによりも絵画固有の表現の自立だからです。
 しかし、それにプラスアルファの物語なり言説なりが織り込まれている絵は、見る側にとっては楽しみが増すことは確かです。

 コンセプトの話に戻ると、モリさんの解説は、一筋縄ではいかない。
 多くの場合、両義的な見方を含んでいます。こういう見方もできるけれど、東洋的な思想では異なった解釈もできるといった具合です。そのことも、彼の絵が、単純な「コンセプトの絵解き」に終わらせていない要因だと思われます。

 冒頭画像、左は「二人の魔女(モエラとノエミ)」です。
 昨年の全道展出品作「燃える木」にも登場した、赤い服と青い服の少女が、魔女とゾンビの人形を手にしています。
 ふたりは他の人格を操っているように見えるのですが、背景の木々にびっしりと人の顔が描かれ、彼女たちもまた操られているということがうかがえます。

 個人的には、漫画家三原順の代表作「はみだしっ子」シリーズ「もうなにも……」でアンジーが
「オレはオレを生みなおすの!」
と言いながら遊んでいた人形を思い出しますが、これはべつにわかってもらえなくてもいいです(笑)。

 右は「仮面」。
 おなじ少女が登場し、選んだ仮面の違いに、少女たちがこれからつむぐであろう物語があれこれと想像されます。

 さてここで、モリさんが今回の個展に寄せたステイトメントを引いておきます。

今回の個展では、異質な他者もしくは自身の内の異質なモノ・おぞましきモノとの対峙をテーマとしています。このおぞましきモノ「abjection」はジュリア・クリステヴァによる概念ですが、主客未分化の状態にある幼児が、自身と融合した状態にある母親を「おぞましいもの」として「棄却」することを意味するそうです。
 それとは逆に、東洋の思想家荘子などは、生と死、可と不可、是と非の対立は互いに相因り、相待って成立する概念に他ならず、対立をあげつらえばさらなる対立が生まれ、闘争は無限に続き、精神は消耗するばかりなので、全てを包み込む「一」なるものを求めることにこそ、魂の安らぎ得る道があるとされます。
 異質なモノに対する世界的な排除傾向が増している中、「他者」について少しでも考える機会になってくれれば幸いです。
 

 クリステヴァはブルガリア生まれ、フランスで活躍した女性現代思想家です。
 「アブジェクション / おぞましいもの」については、こちらの用語解説も参照してください。
 元はといえばフロイトの精神分析の概念で、「不気味なもの」とも訳されていますが、クリステヴァが「恐怖の権力」で論じ、キュレーターを務めたあたりで意味はだいぶ変換しています。つまり「父性からの脱却」というフェミニズム的な解釈が濃厚になっているようです。
 松井みどり著『アート “芸術”が終わった後の“アート”』(朝日出版社)によると、オブジェクションは1980年代末から90年代にかけての現代アート界で主題化された概念で、おもな作家として、キキ・スミスやロバート・ゴーバー、マイク・ケリー、ラリー・クラーク、ナン・ゴールディンなどの名前が挙げられています(ただし、マイク・ケリーはハル・フォスターに「おぞましいもの」として批評されていることについて、そういう意図はないと否定しているという話も、この本で紹介されています)。

 このトレンドは、北海道の美術界にはほとんど無縁であったといえそうです。
 ただし、本郷新記念札幌彫刻美術館が「他者」をテーマに美術展「となりのひと」を開いたことがあり、さすが道内の美術館でも随一の企画力と感じました。

 フロイトの精神分析が、かなりの部分を家族内の人間関係で完結させていることについては、その後も多くの批判が寄せられてきました。
 モリさんの場合も「他者」概念を広く取り、それとの共存を模索しているところがうかがえます。

 先の図版の左の作品は、男の頭蓋骨から小人が顔を出している図ですし、室内の扉の左側に牛の頭部を持った男が、右側に女がいる絵「アカズノマ」も、異質なものとの出会いを表現しています。
 牛の頭部の男は一見恐ろしい(おぞましい)ですが、ドアをあけなくても手前で通り抜けられることがわかるように、実はコミュニケーションはそれほどむずかしいものではないのかもしれません。

 右側の絵「森の食卓」は、他の作品といささか趣が異なります。
 熊の頭部をした裸婦と、人の頭部をもった熊が、りんご1個だけを載せた白い皿がおかれた白いテーブルの前に並んで座っているという図柄です。
 この2人(匹)は1個のりんごをめぐって争うかもしれませんが、宮沢賢治「なめとこ山の熊」のように自己犠牲の精神を発揮して、譲り合うかもしれません。熊の神話や物語は、他者との共存をさぐる道を示唆しているとも考えられるでしょう。


 この調子で各作品について書いていたらきりがありません。
 会場でもっとも大きい作品「火宅(オセロ)」について述べて、この項を締めくくろうと思います。
 手前のまるい卓上に置かれたオセロの盤を見ると、最後に黒が入ることで、残る63コマが一気にひっくり返って、すべてが黒になることが予想されます。
 つまり、女性の大逆転勝利が間近に迫っているわけですが、はたして、ここで盤面を大逆転させることがよいことなのかどうか、老女のアドバイスを受けて若い右側の女性はためらっているのかもしれません。
 この絵などでは、おぞましい他者とは、自分の外にいる者ではなく、未来の自己であったりする可能性が示されています。


(筆者は「他者」というと、柄谷行人が「トランスクリティーク」などで論じているカントの「物自体」論を思い出すのですが、これは筆者の手に余るので、ここでは触れません)


 カウンターの後ろの棚にも4点の絵が飾ってあります。
「鏡(少女)」「鏡(老婆)」「鏡(女)」「オトナなんか大嫌い」で、最初の3点は、鏡の前の人物と、鏡の中の像が食い違っています。
 よくある趣向といえばよくありますが、これまたいろいろ考えるのが楽しくなる作品群です。


 ことしは今後、全道展、北都館のミニ個展、ギャラリー犬養の個展も予定されています。
 まだまだモリさんの快進撃が続きそうです。


2017年4月4日(水)~16日(日)午前10:30~午後10::00(日曜~午後8時)、会期中無休
ト・オン・カフェ(札幌市中央区南9西3 マジソンハイツ)

□モリケンイチ Web Gallery http://www.mori-kenichi.com/

モリケンイチ個展「真夜中のサーカス」 (2017年2月)





・地下鉄南北線「中島公園駅」から約220メートル、徒歩3分
・地下鉄東豊線「豊水すすきの駅」から約600メートル、徒歩8分

・中央バス、ジェイアール北海道バス「中島公園入口」から約380メートル、徒歩5分

・市電「山鼻9条」から約610メートル、徒歩8分


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。