私は、これまで正論欄で日本の研究者・技術者の総論文数、被引用数が大きく低下し、日本の技術力が危機的状況にあることに警鐘を鳴らしてきた。もちろん、事は理系技術者だけにとどまらない。「分数ができない大学生」と言われるように、文科系大学生の学力も低下したままであり、法学部学生も例外ではない。
型にはまった思考が障害に
司法制度改革審議会が平成13年に出した意見書では、「弁護士が、国際化時代の法的需要を十分満たすことのできる質の高い法律サービスを提供できるようにすべきである」と述べられている。そのための法科大学院の設置であったが、認可した法科大学院の数が多すぎ、必然的に法科大学院の修了者における司法試験合格者の割合は予定していた数値を大きく下回った。
それに、司法試験合格者数の引き上げ目標が見直されたことが輪をかけた。法科大学院を経ないで司法試験の受験資格を得ることができる制度を予備試験制度として残したことが事態をさらに複雑にしている。そんな中で、文部科学省と中央教育審議会は法科大学院の受験者の適性を測るために実施している適性試験の任意化を検討し始めた。
日本人弁護士と一緒に仕事をしたことのある外国の弁護士は、日本の弁護士の多くは型にはまった思考しかできないことが、仕事をする上で障害になっていることを指摘する。法の本質を理解していれば、日本の資格かどうかに拘(かか)わらず国際的な業務に習熟する障害にならないはずであるが、日本の法律にあっているかどうか以外のことが考えられないのであろう。
法曹として海外に通用するかしないかは、司法試験の成績とは必ずしも比例しない。広く学んでいるかどうか、すなわち法律以外の分野、また法律なら司法試験科目以外の科目を理解しているかが深い洞察力と関連してくる。それゆえに、少数精鋭の教育で、より広く、本質的かつ実践的に学べる、法科大学院制度が始まったはずである。
法科大の質が全体の質に
法曹は「国民の社会生活上の医師」にも例えられる。医学部に無試験で入学できたり、医学部を修了しなくても資格試験さえ通れば医師になれるという状況を想像してみれば、法科大学院が存在すること、その入学に適性試験を課すことの意味が理解できよう。
法科大学院全国統一適性試験は、法律家としての適性として要求される論理的思考力を試す試験であり、知識ではなく、論理的判断力、分析的判断力、読解力などを測る基礎的問題から成る。作問には、理系・文系のこれはという優秀な研究者や実務家が関わっている。平成23年度に、それまでの大学入試センターの適性試験と日弁連の適性試験が一本化したために、作問者はより一層充実した布陣になっている。
適性試験の問題は、アメリカで、ロースクール志望者を対象に行われているLSATをモデルとして作られている。法律の知識を必要とするわけでもなく、数学を使うわけでもない。一般常識の範囲の知識のみを前提として論理的思考力を測る試験という点で、他にないものである。クイズのような問題と誤解している人も多いようだが、思い付きを必要とする問題ではない。
法科大学院の入学希望者が少ないことが問題視され、適性試験が必修であることがやり玉に挙げられている。文科省は適性試験を任意化する方針を固めた。しかし、(定員の割に)入学希望者が少ないのは、法科大学院が多すぎるからであって、適性試験のせいではない。適性試験は、当初、文科省も大学入試センターに作問させて実施していたのだから、その意義は理解していると思う。
大学院重点化の愚繰り返すな
適性試験があるから受験しない人もいると思うが、その多くは適性のない人たちである。適性試験を任意化するなら、課すのをやめることで、定員を満たす法科大学院も出てこよう。しかし先に述べた深い洞察力を持つ法曹養成改革の趣旨に逆行する。
過去に、文科省は、大学院重点化の名の下に大学院生の数を増やした結果、大学院は受験科目を減らして無理やり定員を埋めざるを得なかった。学力が伴わない学生を大学院に受け入れ、博士号を持っていても就職先がない大量のポスドクが生まれた。そして、基礎学力に欠ける多くの技術者の存在が日本の競争力を危機に陥れている。同じことが法科大学院、そして法曹界で起きるであろう。
教育施策の決定は「未来」の選択である。技術力が落ちたうえに、交渉力で外国にばかにされるようになったら、日本の外交力も防衛力も弱体化する。
少なくとも、これ以上法曹の質を低下させる施策を打たないこと、良い取り組みはやめないことが重要である。そして、時間をかけて、法科大学院の総定員数と法曹への需要が均衡するのを待つべきであろう。(にしむら かずお)