リバタリアニズムと共感

蔵さんが、動物への共感とリバタリアニズムの関係について論じている。これに触発されてのエントリー。ただし、動物ではなく他人に対する共感について。ここから普段考えていることをまとめてみた。
まず、共感を抱くのが人間に取って自然なことだろうと論じてみたい。根拠は最近注目されているミラーニューロンである。この説が正しいなら、人間には共感に関係する回路を元々持っていることになる。つまり完全にレッセフェールな世の中を想定しても他人への共感はなくならないだろうし、自発的な福祉というものは生まれるだろうと思われる。ただ、この論法には欠点があり、そもそもレッセフェールな社会は人間に取って自然ですか、という問いには応えられない。

次に、現代の日本は他人に冷たいという想定が正しい*1として、なぜ他人に手を差し伸べることが少ないのか考えてみたい。日本と西洋社会の違いで思いつくのはボランティアである。西洋社会ではキリスト教の影響でボランティアが自然なことなのかもしれない。余談だが近代資本主義の発達には、プロテスタンディズムの倫理や予定説が必要だったとするマックス・ヴェーバーの説が正しいとすると、日本はリバタリアニズムからより遠いところに位置するのかもしれない。これはとても残念なことだけれど。もう一つは、各国の税制の違いである。税制自体が寄付を奨励するならそのような行動が増えてくるはずだ。税率自体の高さも関係するかもしれない。以前にも書いたように、税金が高いともう福祉には十分出資したと考える可能性がある。これらが正しいとすると、プロテスタンティズムについてはともかく、税率の引き下げ自体は有効かもしれない。リバタリアニズムと他人への共感は決して相性は悪くないはずだ。

更に人間への信頼について。リバタリアニズムの根底には人への信頼感があるように思う。だからこそ、社会保障など強制しなくとも、困った人には寄付やボランティアの形で手が差し伸べられると考えるのである。これに対して社会主義共産主義は人への信頼感が足りないように思う。だからこそ政府や党を信頼するのかもしれない。だがここで、あえて困った人を救うには社会主義共産主義が必要とする人、人への共感が社会主義的な政策に向かっている人にもリバタリアニズム、特にアナルコキャピタリズムを勧めたい。
それはなぜか。全く正反対の方を向いている観のあるアナルコキャピタリズム共産主義であるが、原理主義的というか徹底的といったらいいか、過激さという共通点はあるように思うのだ。その過激さというか徹底的な性質ため、かつての共産国家は弾圧を生むに至った。しかしアナルコキャピタリズムの世界では皆が自由を支持するが故に、どのような思想を唱えようとその人を弾圧することはできない。極端にいえばリバタリアニズムからは共産主義を批判することはできても「私はそれでも共産思想を支持します」という人を強制的に変えることはできない。リバタリアニズムの思想自体に他人に強制することはないという安全弁が内蔵されているような感じだ。
従って逆説的な感じがするが、世界から共産国家がほとんどなくなってしまった今、アナルコキャピタリズムの世界においてこそ共産主義者は自分たちのコミュニティを作ることができる。OSの上にアプリケーションがのっかって動いているように、アナルコキャピタリズムの上に共産主義のコミュニティを作って生活していくのである*2。アプリケーション同士の情報のやり取りができるように、コミュニティ同士が交易することは可能である。アナルコキャピタリズムの世界なら他人に強制しない限り自分の考えることを自由に実行できる。経済効率が落ち自由がなくともそのコミュニティの内部なら自由にやってかまわない。あるいはそのような法体系を持つ民間司法・コミュニティが出現するかもしれない。アナルコキャピタリズムに限らずリバタリアニズムは、自由を尊重するが故に他の思想を批判することはできても、自らの思想を他人に強制することは原理的にできないからだ。リバタリアニズム自身の過激さに由来する、相手に対する寛容というかメタ思想とでもいいたくなるような部分があるからこそ共産主義コミュニティも安心して生きていくことができる。
話を人への信頼に戻すと、アナルコキャピタリズムの社会なら、人への信頼感の代わりに高負担・高福祉を強制するミュニティに共感できる人間が集まっても他人に気兼ねなく暮らしていけるのである。

*1:これは本当かどうかは検証が必要だと思っている

*2:追記 analogで先にOSとアプリケーションの比喩を用いていました。