放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』を見た・・・。その2

2008年11月10日 08時27分27秒 | Weblog
おはようございます。

 阿佐ヶ谷のライブ居酒屋「阿佐ヶ谷ロフトA」で、東海テレビが今年5月30日に放送した『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』を見たことは、前回、書いた。08年日本民間放送連盟賞報道番組部門「最優秀」賞を受賞している。
 この作品を見て思ったことをもう少し、書こうと思う。作品は、「光市母子殺害事件」をあの悪名高い、安田好弘弁護士などの弁護団側から撮ったドキュメンタリーで、森達也さんのドキュメンタリー映画『A』『A2』に通じる手法である。
 同じ場面でも、弁護士側から見るか、被害者側から見るかでは、驚くほどその景色は違う。前述の『A』で森達也監督が見せてくれたのは、ストイックな求道者たちをよってたかって弾圧する“恐怖の世界”である。どんな「微罪でもオウム信者を押さえろ」という検察の方針は、警官をどけようとしただけの信者を公務執行妨害で逮捕したり、オウムと言うだけで町から追い出そうとする人々の集団ヒステリーぶり。・・・ 同様のことが、『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』でも感じられる。できるだけ抑制して構成、編集してはいるが、何がなんでも、被告を死刑にしたい、復讐に燃える被害者家族、それに乗じて報じるメディア、世論と、例えは不謹慎だが、黒人の犯罪者にリンチを叫ぶアメリカ南部のKKKと白人群集を描いた映画のワンシーンを連想させた。それは、しょうがない。弁護士側から撮影すると言うスタンスを採用した以上、「被告寄り」という批判、それは甘受せざるをえない。

 別の資料には、斉藤潤一ディレクターは、「悪い奴を弁護するのはけしからん、という世論に、違和感があった」。と振り返るように、吹き荒れるバッシングの嵐への反発もあった。全国から21人が集まって新弁護団は、被告が「殺意はなかった」と告白したとということで、それを懸命に検証する。世論は「死刑回避の荒唐無稽な言い逃れ」と非難し、弁護団にまで「鬼畜」「悪魔」の言葉が浴びせられる。事務所の看板が壊され、脅迫の手紙が届いた。それでも、弁護士たちは広島に通い、「被告の言葉が本当なのか、どうか」、被害者の首に残った指の跡から、犯行時の心理を推測する。事件当時の足取りも丹念に辿り、被告が体験した父親からの虐待と母親の自殺。それにより、精神年齢が幼くして止ったという鑑定を集め、多くの材料を突き合わせ、被告の告白は事実ではないかというストーリーにいたる。
 ここで、この作品の是非を問うつもりはないが、2点ほど指摘すると、この作品の主人公は、あの安田好弘弁護士ではなく、名古屋法律事務所所属の村上満宏弁護士であり、冒頭、本人紹介の狙いではあるだろうが、村上満宏弁護士が以前に担当した1994年の『長良川・木曽川リンチ殺人事件』を紹介している。被告は、19才の少年。一審は無期懲役。名古屋高裁での二審では、死刑判決。村上満宏弁護士は、被告に被害者遺族に手紙を書く事を勧め、被害者遺族と加害者の少年を接見させ、被害者遺族が、『○○ちゃんの分まで生きて』という言葉をかけられたということを、今回の弁護を引き受けた理由として伝える。
 ここに既に、意図か結果かは別にして、幾つかの制作者の施した伏線がうかんでくる。
 さらに、被告である元少年(*これも変な言葉だと思うのだが)は、父親のDVが事件の背景にあるとし、母親に暴力を振るい続ける父親に日々怯えながら暮らしていたことを伝える。暴力は少年にも向けられ、母親も精神に異常をきたすようになった。少年が12才になったある日、ガレージで首を吊って死んでいる母親を見つけてしまい、以後、彼の成長はここで止まった。精神鑑定も行い、その結果は、12才程度の精神年齢だというのだ。
 弁護団を追う以上、彼らの論理、仮設と検証が、作品のストーリーにならざるをえない。

 だが、僕は途中から、違和感を覚えていく。理由は2つある。やむをえないことだが、冤罪の被害者となろうとする可愛そうな元少年を救う、正義の人として弁護士たち自身が思い、描かれていること。そして、それにつれ、2人の被害者の死が軽ろんじられていることだった。
 後者に関していえば、被害者の死に対し、弁護士とどんな言い方をしようと、この元少年が何の関係もない他人の家を突然、訪ね、勝手な妄想(・・・弁護団が言うように母親に甘えたかったとしても、それは一方的で勝手な思いである)で、2人の人間を死なせてしまったことは事実である。その事実に対する弁護士、作品は真摯に向き合っているのだろうか?という疑問である。

 僕は冤罪被告のドキュメンタリーを何本か作っている。それは、社会的な意義があり、冤罪によって失われた被告・その家族の時間を訴えるものである。だが、その時にさえ、ふいに被害者の死とその遺族について、彼らの失い、止まったままの時間を思った。それは、冤罪の被告とはまったく関係のないことだけど、この被告を恨む事で生きてきた被害者遺族は、明日からどうするればいいのか。殺された人の魂は何に祟ればいいのか?僕は、被害者家族に話を聞くことを主張し、取材にいったときに、残された娘さんが、「それでも、父は殺されたんですよね」と語った言葉に衝撃を受けた。これは、冤罪被害という事件ではなく、本来は、XXX殺人事件である。という事実が、ともすれば忘れ去られることの怖さだった。
 だからこそ、冤罪は許されないということなのだが、冤罪告発報道や弁護団の多くは、事件そのものの被害者・遺族を忘れ去っていることに対して感じた違和感である。
『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』を見て、このことを思った。
 
企業不祥事が止まらない理由
村上 信夫,吉崎 誠二
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3 コメント

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Unknown (由美)
2008-12-21 10:48:19
誤字があります。
「ならざるおえない」⇒「ならざるをえない(ならざるを得ない)」
「駆ろんじている」⇒「軽んじている」です。
あなたほんとに、放送作家さんですか?
ご指摘ありがとうございます。 (村上信夫)
2008-12-23 07:48:44
由実さま コメントありがとうございます。
 誤字脱字は充分気をつけているのですが、どうしても残ってしまいます。お恥ずかしい。
 早速直しました。
 ただ、「やむおざない」→「やむ“を”えない」は文法的に明らかに誤用ですが、「ならざるおえない」は、「相手の思いを確かめる間もなく、ある程度は自説の主張にならざるおえない」。(文藝春秋07年5月号 玄侑宗久)「あの不安定な構図にならざるおえないのではないか」。(「俳句研究・昭和52年7月号・特集草間時彦」俳句研究社)「当社では、生産に関しては、新設工場は、ほとんどを海外で建設している。競争原理、特にコストの面からそうならざるおえない」。(地域経済産業政策に関する懇談会 第2回 議事要旨 )のように、公式な表現でも多く使われています。文語の慣用表現「・・・ざるをえない」が、口語化する過程で「・・・ざる、おえない」と変化したする用例と判断する向きあるように思っていいかもしれません。僕も既にそう変化した、容認される用法だと思っていました。
 しかし、文語的表現を伝承する以上、「・・・ざるをえない」の方が正しいですね。
 ありがとうございます。


死刑に思う (池田真紀子)
2009-10-21 23:47:23
たとえ殺人犯でもかばう弁護士団は神のペテン師か