琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】〆切本 ☆☆☆☆

〆切本

〆切本

内容紹介
「かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ……」
「鉛筆を何本も削ってばかりいる」
追いつめられて苦しんだはずなのに、いつのまにか叱咤激励して引っ張ってくれる……
〆切とは、じつにあまのじゃくで不思議な存在である。
夏目漱石から松本清張村上春樹、そして西加奈子まで
90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話94篇を収録。
泣けて笑えて役立つ、人生の〆切エンターテイメント!


 エッセイなどで、ベタな「穴埋め」として、「どうしても書けないという苦悩を書き連ねる」というのがありますよね。
 「書きたい、書かなければならないのだが、書けない、ネタが無い、どうすればいいのか……」などと、愚痴を書き連ねて、なんとか1回分を消化するというものなのですが、この本を読んでみると、使い古されたようなこの禁断の秘法は、明治の文豪の時代から、脈々と受け継がれていることがわかります。


 大岡昇平さんの話。

 作家の生活なんて、子供の教育によいはずはない、とあきらめていた。大きくなったらなんになるかな、なんてことは、親は考えてもみなかった。しかし彼が中学の二年か三年の頃、作家の家庭を取材に来たラジオのアナウンサーが戯れに彼にマイクを向け、
「大きくなったら、やはり、お父さんみたいな仕事をやりたいですか」ときいた時、断乎として、「いやです」と答えたときには、少しドキッとした。
「なぜ、いやですか」
「ねむいから、いやです」
 この返事は、無邪気な子供らしい無邪気な返事と考えられた。
「なるほど、お父さんみたいに徹夜で原稿を書くのはいやなんですね」とアナウンサーが追求した。
「それだけじゃありません.始終うそばかりついてあやまってばかりいなければならないからいやです」
 父親の名誉のために急いで付け加えるが、私には原稿がいつも締切ぎりぎりでないと出来上がらないという悪い癖があり、「すみませんが、もう一日待ってくれませんか」とかなんとか電話口で平身低頭ばかりしているのを見ているのである。
 一枚も出来ていないのに、「十枚まで行ったとこなんですが」とか、「不意に客がありましてね」とか、風邪を引いたとか、腹が悪くなったとか、苦しい口実を発明する現場を見られていたわけである。
 どうせこれは人にすすめられる商売ではない。私としても息子には文士になって貰いたくないが、こうはっきり言われてみると、やっぱりそうかと思いながらも、寂しい気がしないでもなかった。


 こういうのは、やっぱり「気まずい」だろうなあ、なんて思うんですよ。 
 これで、子供に「噓をついてはいけません」とは言いがたい。
 この本を読んでみると、古今にさまざまな「書けない言い訳」というのがあって、そこに知恵をこんなに絞るくらいなら、原稿を書いたほうが手っ取り早いのではないか、と可笑しくなってきます。


 高橋源一郎さんの項には、こんな話が出てきます。

 有名な某作家は、本当に切羽詰まった状態になり、編集者から矢のように催促の電話がかかってきてそのたびに「あと二時間待って」と言い続けたそうである。うんざりした編集者がどうせ二時間待っても書いてないに決まってるから気をきかせて四時間待って電話をかけたら、その作家氏は「せっかく原稿を書いたのに、二時間たっても電話がかかってこなかったから、頭にきて破いちゃったよ。お前のせいだ」と文句をつけたそうだ。もう完全にやぶれかぶれである。これではいくら温厚な編集者といっても忍耐の限界があるというものであろう。とにかく、作家のいうことは信じられない(わたしが保証する)。


 こんなのただの「逆ギレ」だと思いますが、よほど追い詰められていたんでしょうね。
 それでも干されなかったのだから、よほど人気があったのだろうなあ。
 

 良いものを書こうとして、気負ってしまって、「〆切」になってもまだ一文字も……ということもよくあるみたいなのですが、多くの作家にとって、〆切は最大の敵であるのと同時に「〆切があればこそ、ペースが掴める」という味方でもあるんですね。
 編集者も、原稿が遅れる作家の原稿をなんとか雑誌に載せることに、やりがいを感じている面もあるようです。
 吉村昭さんや森博嗣さんのように「〆切どおりに書くのが当たり前で、〆切に遅れることを武勇伝のようにしている作家や編集者はおかしい」と苦言を呈している作家もいるんですよね。社会常識として考えれば、締切を守るのが当たり前、のはずなのですが……


 上林暁さんの項より。

 俗に「編集者泣かせ」といふ言葉がある。いつも〆切をすつぽかして、編集者を苦しめる作家の謂ひである。しかしその反対に、〆切をいつもキチンと守つて、編集者を喜ばせている作家もある。かういふ作家が多ければ多いほど、編集者は助かるであろう。
 ここに皮肉なことに、編集者にも多少あまのじゃくなところがあって、〆切をキチント守つて原稿を渡してもらつても、必ずしも喜ぶとは言へない。助かるには助かるにしても、さういう作家はいくらか安つぽく見える。作家の営みに立入って考へれば、一篇の作品がそんなに機械的に出来るものかと、疑問も湧くであらう。
 むかし私の勤めていた改造社の社長山本實彦は、面白い人だった。ある時、原稿を依頼して数日ならずして、速達で原稿を送つて来た費とがあつた。本来なら、〆切よりも早く届いたので喜ぶはずなのに、山本さんはそつぽを向いて、その原稿を手に取っても見なかった。「原稿を頼んですぎに送つて来るやうなことで、面白い原稿が書けるはずはない。もう少し苦心しなくちやア」と言って、軽蔑した。


 作家のみならず、編集者にも、けっこう「めんどくさい人」が多いみたいなんですよ。
 「〆切というもののアバウトさ」は、作家側だけが原因ではないのです。
 ちなみに、「原稿の書かせかた」も、力技や泣き落としのようなものから、川本三郎さんが紹介している「文藝春秋のOさん」や「『エルジャポン』のHさん」のような、「さりげなく応援系」など、さまざまなタイプがあるようです(ちなみに、OさんもHさんも女性だそうです)。

 Oさんは村上春樹さんが中心ににあった『and Other Stories』を担当してくれた。例によって私の原稿が遅れた。彼女からの電話がこわくてずっと留守番電話にしていた。夕方、マンションの管理人が家に来て小さな包みを私に渡してくれた。ケーキだった。それにOさんのカードがついていた。
「がんばって下さい」。これには「中年の目にも涙」だった。Oさんはその後も本の書評が出るたびにコピーを送ってくれる。アフターケアが実にしっかりしている(読者からのアラ探しの葉書を送りつけてきたどこかの編集者と大違いだ)。なるほど編集者にきびしい村上春樹さんが信頼しているはずだ。


 ああ、村上春樹さんは、編集者にも恵まれているのだなあ。
 ケーキもですが、本が出たら終わりじゃなくて、アフターケアまでちゃんとする、というのは、なかなかできることではありません。


 あと、外山滋比古さんのこの話は、とくに印象的でした。

 大学では卒業論文を書かせる。もっともこのごろは学部では論文は無理だとして、卒業論文を廃止した大学もすくなくないが、なお、多くの大学では論文を卒業の条件にしている。
 卒業論文には締切りがある。R先生のように締切りのころから動き出すというのでは間に合わない。一時間おくれても受理されない。締切り厳守である。
 その日が近づくと、もうとても間に合わない、ことしは無理だ、一年論文留年をしようという気持ちをおこす学生がかならず何人かあらわれる。いま急いで不本意な論文を提出するより、もう一年じっくり時間をかけて悔いのない論文を完成しよう。この空想は甘美である。目前に迫った締切りと、手がけている進行中の論文はいかにも醜悪である。ここはどうしても空想の美酒を飲みたい。そこで教師に通告してくる。ことしは提出しない、一年のばす、と。
 もし、ここで教師が折れるとどうなるか。この学生は永久に卒業できないおそれが出てくる。教師たるもの、ここでは心を鬼にしなくてはならない。何が何でも書き上げろ。死んだつもりで書け。でき栄えなど自分で気にするのは生意気である。ことし書けないのなら、来年はもっと書きにくい。来年になれば名論文が書けるように思うのは幻想にすぎない。来年のいまごろになれば、いまとまったく同じ気持になる。さらに悪いことに一年のハンディキャップがある。せっかく一年かけたのに、このていたらく。もうすこしましなものができなくては留年した手前もはずかしい。そこで、ひょっとすると、もう一年留年したくなる。一度あることは二度ある。またのばす。こうしてとうとう四年留年したが、それでも論文が書けないでついに退学したという例も実際にある。はじめの気の弱さが事の起こりである……。そういう訓話をして、しゃにむに書かせてしまう。
 仕事にかかるのは気迫だが、仕事をし終えるには諦めが必要である。大論文を書こうと思ったら決して完成しない。できるだけの努力はする。あとはもう運を天にまかせる。不出来であってもしかたがない。そう思い切るのである。色気をすてる。そうすれば案ずるより生むはやすし、である。


 これはまさに「金言」ではないかと思うのです。僕の経験上からも。
 結局のところ、どんなに壮大な構想を持つ、すごいけど未完成な論文よりも、拙くても完成した論文のほうが価値がある。
 というか、未完成だと、価値判断の俎上に乗らないんですよね。
 とにかく完成させる、ということを重視してやっていけば、けっこう、それなりのものができてしまうものでもありますし。


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