『痕跡本のすすめ』

古沢和宏

(2012年2月17日刊行,太田出版,東京,160 pp., 本体価格1,300円,ISBN:9784778312978版元ページ古書五つ葉文庫

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「痕跡本」の愉しみと戒め



著者の言う「痕跡本」とは「古本の中に,前の持ち主の「痕跡」が残された本」(p. iii)のことである.“トークン”である古書は自分が手にする前にさまざまな前所有者(個人または図書館や大学)を経ている.ワタクシ自身は,古書を入手したときには,できるだけ“トークン”であるその本の履歴を跡づけるようにしている.その中には確かに「痕跡」と呼べる書き込みがあるものもある.あるいは,著者のサイン入り献呈本も何冊か手元にある.



本書の著者は長年にわたって蒐集したさまざまな「痕跡本」をカラー写真で紹介しつつ,探偵並みの推理でその「痕跡」が残された理由と背景を追求する.痕跡本の証拠写真と文章の混ざり具合が絶妙で,最初から最後まで楽しめる本だった.「痕跡本」とあえて命名しなければ,単なる「キズ本」として誰もが振り向かなかっただろう.その点ではかつての「トマソン」に匹敵するネーミングの勝利とも言えるだろう.そういえば本書に挙げられている痕跡本のいくつかは「原爆トマソン」に相当する気がする.



個人的にとても印象に残っている痕跡本は,六年ほど前に入手したプッチーニの歌劇〈トゥーランドット〉の総譜:Giacomo PucciniTurandot : dramma lirico in tre atti e cinque quadri』(1958年刊行,Ricordi)だ.その年の新宿区民オペラでの上演のために購入したスコアだった(新刊は品切れで手に入らなかった).ベルリンの古書店〈Umbras Kuriositätenkabinett〉から取り寄せたのだが,カタログの説明には「Starke Gebrauchsspuren. Zahlreiche Anstreichungen」と記されていた.ブツを手にしてみたら確かにハードカバー造本がところどころ崩壊している.また書き込みの量が尋常ではない.それもそのはず,この“トークン”本はとある指揮者が実際の〈トゥーランドット〉の上演に用いた総譜だった.実際に開いてみると,タクトの振り方からはじまって,独唱・合唱・オーケストラそれぞれの演奏上の注意点や変更点から譜面の印刷ミスの訂正にいたるまで詳細なドイツ語の書き込みが記されていた.まさに定義からしてまごうことなき「痕跡本」なのだが,ここまで前所有者の痕跡が濃密に残されていると,“痕跡”などではなく“実物”そのものではないかとさえ感じた.



残念なことに,この総譜の前所有者がいったい誰だったのかは未だに判明していない.当時はいろいろネット検索もしてみたのだが手がかりはまったくつかめなかった.しかし,今回『痕跡本のすすめ』を読了して,そのあとがきに次の一節を見つけた:


さて,ここでひとつ,聞いてほしいことがあります.それは僕が痕跡本を楽しむ上で守っていることの話.それは「痕跡本の持ち主を捜さない」ということです.(p. 157)



痕跡本は,痕跡のみで楽しむ.それは,痕跡本を読む上でのモラルであると同時に.痕跡本の物語を守ることでもあるのです.(p. 158)

そーか,そういうことだったのかと六年目にして膝を打ったしだい.どうもありがとうございました.



三中信宏(2012年2月19日)