2015.01.12
# 雑誌

職人・竹鶴政孝(マッサン)と天才・鳥井信治郎(鴨居の大将)「本当の関係」
NHK朝ドラ『マッサン』ではよくわからない

週刊現代 プロフィール

'29年、日本初の本格ウイスキーが発売されることになるが、これは二人にとって理想的な酒とはほど遠いものだった。貯蔵庫の樽の中には最初の年に蒸留した原酒が寝ていたが、まだ熟成を始めたばかりの段階。新しい原酒と古い原酒をブレンドして深い味わいを出すブレンデッド・ウイスキーを作る段階にはまだまだ時が熟していないと竹鶴は考えていた。

しかし、酒を蒸留しては熟成するばかりで社の財政を圧迫する一方のウイスキー事業に対する風当たりは日増しに強くなる。赤玉ポートワインなどで出た儲けはすべて、ウイスキー事業に吸い取られるような状況で、鳥井の我慢も限界にきていた。

こうして発売された「白札サントリー」だが、売り上げは期待通りとはいかなかった。その理由は簡単で、当時の日本人の鼻には、あまりに「焦げ臭かった」のである。

「竹鶴はスコットランドから輸入したピートを炊いて、スコッチの薫香を再現しようとしました。しかし、その香りは、当時の99%の日本人にとって異質な臭いだった。鳥井はそれがわかっていて、『もっとやわらかいものを作れ』と指示しましたが、もともと原酒がスモーキーなので扱いが難しい。このような香りの強い原酒は3、4年という若さでは真価を発揮しません。『白札』は竹鶴の思いが先走った、アンバランスな酒だったと思います」(前出の土屋氏)

鳥井が「やってみなはれ」精神で、竹鶴に任せて作らせた酒の第一号は、結局売り物にはならなかったのだ。鳥井は竹鶴のこだわりにイライラしただろうし、竹鶴は「本物」より「売れる物」を目指す鳥井の考えに腹を立てたにちがいない。

その後、竹鶴は鳥井信治郎の息子である吉太郎に醸造技術を指導したり、横浜のビール工場で工場長を務めたりしながら寿屋に勤務したが、自分の理想とするウイスキー造りはできなかった。そして、当初の契約期間を終えると、自分が心から納得できるウイスキーを作るために北の大地を目指し、北海道・余市にて大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を創業するのである。結局、二人は最初から決別する運命だったのだ。

奇跡が生んだ国産ウイスキー

竹鶴はその後も本格的なウイスキー造りを追求し続けたため、社の経営はいつも綱渡りだった。一方、サントリーは'37年に発売した「サントリー角瓶」がヒットし、いち早く大衆にウイスキー文化を広めることに成功した。

ニッカは'54年、アサヒビールの傘下に入ったが、いまも本格的なウイスキーを愛する消費者にもてはやされる銘酒を生み続けている。一方で、サントリーは酒の質もさることながら、海外での大規模なM&Aを成功させて、世界トップクラスの酒類メーカーとしての地位を築こうとしている。'14年4月には、米蒸留酒最大手のビーム社を約1兆7000億円で買収し、世間を騒がせたが、このような大胆なビジネス戦略はまさに鳥井信治郎のDNAがなせる業だといえる。

サントリー広報部は「鳥井信治郎以来、サントリーは一貫して日本人の繊細な味覚に合わせたウイスキー造りを目指してきました」と語る。

一方、ニッカウヰスキー・ブレンダー室長の佐久間正氏は、「いい酒を造りたいという思いはサントリーと同じ」としながらもこう語る。

関連記事