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吉川孝展

2006年04月01日 20時56分24秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 会期終了後のアップになってしまって申し訳ありません。
 
 上の絵は「冠水橋」。次の絵は「冠水橋(’05)」です。

 

 濃い藍色の闇の中で人物が絡み合う絵柄は、基本的にこれまでと変わっていません。
 作品によっては、白いねずみが描き加えられたり、ちょっと不気味な目玉がこちらを見つめ返していたりします。
 「冠水橋(’05)」で、画面にほとばしっている絵の具は、チューブから直接キャンバスにこすりつけたものだそうです。
 そうやって見ると、吉川さんの絵は、ギターがじゃーんと鳴るロック、っていう感じがします。
 吉川さんは札幌在住。全道展絵画部で最年少の会友です。

3月27日(月)-4月1日(土)10:00-18:00(最終日-17:00)
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3 地図A

■04年の個展(画像あり)


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暗闇に光る眼 (T.nakamura)
2006-04-02 00:08:47
「吉川孝個展について」(時計台ギャラリーB室*20060327-0401)



吉川さんは1972年生まれであるから、現在、34歳である。新進気鋭の芸術家、という風貌は一切してない。会えばすぐ分かると思うが、とても腰の低い、折り目正しい、普通のサラリーマンという出で立ちである。話してみても、いわゆる芸術家臭味のあることばは口から全然出てこない。そのことにこころよい好感を持つ。で、個人史をうかがうと、やはりと言うか、専門の美術学校の教育課程を受けた人ではない。それでは画を描き始めたきっかけは何かと伺うと、19歳のときに、それは起った。聞くところによると、全道展の伏木田さんの芸術にふれて電撃的な衝撃を受け、その直後、我をも省みず、伏木田さんへ電話をかけたそうである。その青天の霹靂的な突発的な行為がどうもその後の吉川さんの人生の軌道を少しばかり変えた模様である。その突発的パッションが彼の美術家としての軌跡を描くことになる発端に位置している。この不可思議な運命的な絵画との出会い。それから伏木田さんの画塾の門をたたき、一から画の勉強を始める、画を描くことに熱中するという、彼の人生にとって大きな意味を持つ時間が始まる。そして、1995年から、伏木田さんが所属する全道展に作品を出すようになる。七年目の年の、2002年の全道展で、佳作賞を受ける。翌年の2003年には奨励賞を受け、そして2004年の全道展では北海道新聞社賞を受賞し、会友に推挙され、現在に至る。またこれに少し付け加えるなら、一時期、全国規模の公募展のひとつである自由美術協会展に作品を出している。また現在は2002年から国画会に作品を出している。



B室の吉川さんの全作品を眼の前にして、誰もが、その異様な、異形な画の佇まいに驚かない人はひとりとしていないであろう。画面の全体は深い深い漆黒の闇で埋めつくられているからだ。これは原始太古の地球を覆っている宇宙空間の闇なのか。それとも、人間という存在そのものに原始から巣食っている禍々しいまでに邪悪で底知れぬ精神の闇の色なのか。さながら、闇の中の悪夢を引きずり出したかのように、すべてが真っ暗闇の青の世界でひたされてある。その漆黒の暗闇の基調となっているのは深くて厚くて底知れぬ程暗い青系統の絵の具の積み重なりであって、眼を凝らして画の中を覗いてみても、物の形も影も気配もひっそりと闇の底に沈んで見つけだすことが困難である。その異様な青の色彩の荒々しいぬたくりの幾つもの痕跡がまず眼を穿つ。それは誰もが捕らえることの不可能な不可解な存在をあばこうとしているかのようだ。すなわち、唯ひたすら、底知れぬ闇の実体に対して吉川さんの精神が対峙していて、その不可視の闇の虚空にむかって果敢に挑戦し、その烈しい衝突の反動のプロセスが、この青の絵の具の色の烈しい息遣いと休息の往復運動を引き起こしている。



闇の中に沈んでいる不可視の気配にむかって全身を傾け、眼を凝らし、じっと見続けるうちに、眼は次第に闇に慣れ、その闇の色の微細な息遣いの音を聞分け、闇から発してくる存在の幽かなにおいをかぎわける。その刹那に闇に穿たれたちいさなひかりの割れ目に気がつく。それが人の眼の形のような、それも片目だけが見えている。



そして懐かしい記憶のぼんやりとした像を誘い出す。随分と以前、多分、歴史の教科書の写真の中に、はるか紀元前の地中海の人間がこしらえた素焼きの欠片に描かれていた、アーモンドの形をした人の眼のかたちに、それはそっくりなのである。



その人の眼が果たして誰の眼であるのか、作家の眼であるのか、誰か他の人の眼であるのか、あるいは・・・・・・・、その素性を明かす手がかりはすべて闇のなかに埋もれていて確かめる術がない。その稚拙とも感じるアーモンドの形をした正体不明の片眼だけが見開かれたまま、こちらを静かに見ているのである。不気味と言えば、不気味ではないか。しかもそのぼんやりと開かれた眼の手前に白いハツカネズミの姿さえ見えるではないか。



この画面を覆いつくしている闇のふかさをえんえんと描いている吉川さんのことを想像するうちに、いつか、私の視線は数万年前の人類の精神の痕跡へと向かう。南フランスのどこかの洞窟の奥の奥、日の光が完璧に届くことのない暗闇の場所、その湾曲した岩肌に隈なく描かれた数百体もの動物の生き生きとしたフォルム、19世紀に発見されて、その地に因んだクロマニョン人と名づけられた、これらホモ=サピエンスが洞窟に残した太古の「絵画」のことをなぜか想起する。



その太古のホモ=サピエンスが残した「絵画」のように、否、それ以上に、吉川さんの画を覆いつくす暗闇は完全に沈黙していて、何も語ろうとはしない。不自然な人間的「意味」を拒否しているかのようだ。



暗闇のその不可視の物質感・存在感(だけ)をあえて純粋に「絵画」のモチーフにして制作をこころみることは常識的にはノーマルな「絵の道」からは随分とはずれている。そういう類の感想をうむと思う。しかし「絵画」とは何かという、あの根源的な問いの前に立ち、その問いにこたえるポジションとしての根源的なイメージ(原型的イメージ)をはるか先史時代の闇のなかに探し求めるなら、あの洞窟の「画」にたどり着くことになる。其処の場所から、吉川さんの画業を眺めてみるなら、案外、吉川さんのこころみは「絵画」の正しい道を歩んでいると言えるかも知れない。



数万年の時間をおいて、現代のホモ=サピエンスのひとりである吉川さんは、きわめて始原的に純粋なる「絵画」の制作を(あたかもクロマニョン人のように)試みているのかも知れない。



そこから吉川さんの「画」の欠陥も見えてくるであろう。だがそのことにはふれない。それに関しては個々の鑑賞者の判断にゆだねる。



さて最後になるが「画」のタイトルにふれてみる。



「翳ニ続ク海」2004(100S)・「目ニ注グ雨」2004(30F)・「海ニ降ル雨」2005(100S)・「時と翳」2005(10S)・「冠水橋(’05)」2005(130F)・「冠水橋」2006(100F×2)・「冠水橋A」2006(4F)・「冠水橋B」2006(3F)・「冠水橋C」2006(3F)・「沈下橋」2006(100F)・「沈下橋Ⅱ」2006(100S)・「翳ノ海」2006(SM)・「星ノ海」2006(1F)。



「海」「雨」「冠水」、すべて「水」にかんするモチーフである。そして「水」のモチーフに静かに連動するように「橋」のモチーフへとつながる。そして「冠水橋」から「沈下橋」へとモチーフはいまも動いている。



「冠水橋」も、「沈下橋」も、「画」の何処を隈なく探して見ても、「橋」のすがたはその影も形も見つからない。見えるのは青一色の複雑怪奇な世界である。あたかもすべてのものの形を青の絵の具で塗りこめてすっかり消してしまった果ての果てに見出されるかも知れぬ純粋の青の色の世界がそこに出現することの奇蹟を待っているかのように。(ベケットのゴドーを待つ人のように。)



「冠水橋」も、「沈下橋」も、作家にとって「絵画」の制作へと向かわせる根源的な「モチーフ」のひとつであって、吉川さんにとって、それが制作の方向と登攀のルートを暗示する詩的なメタファーなのである。その言葉をくり返しくり返し呟くことによって自ずと喚起するであろう絵画的イメージのこころよい運動に身をゆだねることだけが要請されている。



吉川さんは大抵の画家の場合と同じように「二足のわらじ」を履いている。それはそれ相当の水圧に抗して画業をつづけていく覚悟を持つことになる。それが「絵画」制作の困難さそのものと無関係であるにしても、やはり、大変なことだと思う。是非とも、からだをこわさない事を願っている。

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