白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

ベーシック・インカム入門

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

本書は、今話題のベーシックインカム(無条件一律に所得を給付する制度。以下、BI)を、制度の概要、日本の福祉の現状、歴史的な経済思想の流れから、現在のBI運動までを網羅した欲張りな本だ。従って、内容は濃く、一般の新書よりは難解だが、各章末尾に1ページの箇条書きになったまとめが付いており、逆索引として便利に使えるようになっている。歴史的には、J.S.ミルの経済学原理(第2版、1848)まで遡り「生産物の分配の際には、まず第一に、労働のできる人にも、ともに一定の最小限度の生活資料だけはこれを割り当てる。」を引用して、BIの議論を先取りしていると指摘する。さらには、バートランド・ラッセルや、キング牧師が登場し、M.フリードマン負の所得税(一定以下の所得については逆累進課税し給付する制度)から、アントニオ・ネグリまで、どれもがBIに繋がるという説明だ。そして、BIを「リバタリアン・バージョンvsアウトノミア・バージョン」として提示する。
ここで、最近頻繁に使われる、リバタリアンという言葉について整理しておきたい。仲正昌樹の分類(「集中講義!アメリ現代思想」)によるならば、ハイエクに代表される「自由の擁護論」が、M.フリードマンに代表される「古典的自由主義」へと繋がり、そこから、ノージックに代表される「リバタリアニズム」(最小国家論)へと流れて行く。ハイエク自身は自らリバタリアンという言葉を使ったが、言葉は時代と共に変わるということを考えれば、リバタリアンという言葉もまた、狭義で使われるべきだ。思想は2軸2次元の単純な地図上にプロットできるほど、単純なものではないのだから。
さて、「リバタリアン・バージョンvsアウトノミア・バージョン」は、言い換えると「強者の論理としてのBI」vs「弱者の論理としてのBI」と言い換えることが出来るだろう。最近では、プレカリティ(労働と存在の不安定な社会状態)という造語が用いられ、ヨーロッパの社会運動ではよく用いられているようだ。例えば、"Fuck Precarity!!"、といったように。逆に最近の日本の著名人たちは、月額5万円とか8万円のBIで福祉の代替にしようと主張する、事実上の福祉の切り下げを提唱しているようだ。果たして、この人たちは、現在の生活保護や障害者年金の月額をご存じなのだろうか、と首を捻らざるを得ない。
BIは本当に福祉の1バージョンなのか。本当に、BIと負の所得税は似ているのか。これには色々な見方、考え方があるが、私はノーだと言いたい。2006年に日本で出版されたドイツ人会社経営者ヴェルナー(有名なBI啓蒙家)の「ベーシック・インカム」(現代書館)を読むならば、BIの思想の根本は、「労働と所得の分離」という点にあるのだ。そして、それは豊かな成熟した社会においてのみ可能なのであり、想定しているBI支給月額も、1500ユーロ(1ユーロ135円換算で、約20万円)である。入門書としては、本書よりもむしろヴェルナーの本の方が分かりやすい。つまり、私の理解では、BIと負の所得税はまったくの別者である。なぜならば、負の所得税では、労働と所得は分離されていないし、一定以上の所得になるとBI部分は相殺され所得税を払うことになる。ヴェルナーの提言は、理念だけでなく、制度および実現への移行計画にまで及ぶ。ヴェルナーの意見では、所得税を廃止し、財源を消費税に求めるので、負の所得税のような論理的矛盾は発生しない。
さて、私は理念としてのBIには賛同するが、その実現性を考えるならば、政策としてのBIには到底賛同できない。第1に、民主主義国家において、段階的にBIを行うことなど不可能だ。やるとすれば、任期内に、社会保障制度全般、すなわち、生活保護制度、障害者保障制度、年金制度などを一気に再構築しなければならない。それは、もはや改革ではなく、革命だろう。既存の社会階層を刷新することになるからだ。第2に、BIによって生じるインフレを予測できないということだ。そうなると、産業の国際競争力の問題も出て来るし、月額20万円の価値が変わってきてしまう。第3の問題は誰もが思うところだろう。それは労働意欲の減退と、労働力人口のさらなる減少だ。BI論者は、この点で楽観的だが、私には分からないとしか言いようがない。第4の問題は、BIだけで生活している人が借金をして返済できなくなるという事態が容易に想像できるという点だ。自己破産制度、金融制度を根本的に見直さなければいけなくなる。こうして見て行くならば、BIは福祉の1バージョンなどではなく、<資本主義2.0>とも言うべき大革命だと言えるだろう。リアリストである私が、BIという政策に賛同しない理由はここにある。
もっとも、日本はEU諸国に比べて福祉後進国だ。OECD加盟国の中で、相対貧困率アメリカに次いで高いというのは有名な話である。さらに、この山森亮氏の本によるならば、2001年の生活保護の捕捉率は16.3%だと言う。(どうやって求めた数字かは分からないが)つまり、制度が適切に運用され、受給のスティグマ(恥辱)が無くなれば、現在の約6倍、約600万世帯が生活保護を受けるということになる。故に、私は安易な流行としてのBIに流されるよりも、EU諸国の制度を参考にした社会保障制度全般の整備の方が、日本においては現実的だと考えるのである。
一方、理念においては何故賛成なのかも書いておく必要があるだろう。それは、現代が完全資本主義社会(私の造語)であるということだ。完全資本主義社会とは、お金が無ければ生きられない社会を意味する。お金がなければ、安全な水も、安全な食べ物も、住む所すらも得ることが出来ない、そういう社会だ。従来の福祉は完全雇用を前提に考えられていたが、現代の文明の進歩は、雇用なき成長という段階に入っている。そういう観点で見るならば、日本国憲法25条に基づき、BIを支給することは政府の努力義務なのである。景気が回復しても、雇用は増えないし、賃金は伸びないだろう。真にBIを実現するには、強者の理論と弱者の理論の対立を超えて、完全資本主義社会の前提としてBIを要求するべきなのだと思う。私たちは、もはや「働かざるもの、食うべからず」という労働倫理を捨てなければいけな。その意味では、今こそバートランド・ラッセルの思想に光があてられるべきなのではあるまいか。もはや、労働はエコではないし、美徳でもない。