1 落合陽一:デジタルネイチャーの時代へ

2017年へ:「幼年期は終わる。今こそバベルの塔を建てよう」(前編)

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2017年が始まった。iPhoneが発表されて1月9日で10年になる。この10年で生活をもっとも大きく変えたもの、それはスマートフォンだと思う。

 iPhone First Generation 8GB初代「iPhone」は2007年1月のMacWorldで発表された

スマートフォンはおそらく21世紀でもっとも人の生活を高速に、そしてダイナミックに変えた装置でありインフラだ。それ以前のタッチパネル型PDAが成し得なかったことを、「スマートフォンという象徴的ハードウェア」と、それを成り立たせる「ソフトウェア流通プラットフォーム」および「通信インフラ」の組み合わせは、軽々と超えていった。たった10年で劇的に世界のすべてを作り変えたのだ。

人はインターネット上に第二の言論・視聴覚空間を作り、住所を持ち、デジタル空間にもう一度生まれた。

IoTによる技術革新は我々の生活習慣と文化を不可逆なほどに変えてしまった。誰とでも連絡がつき、待ち合わせ場所と時間を厳格に決めずとも人に会うことができ、道に迷うことがなくなり、どこでも時間を潰すためのコンテンツを入手できるようになった。

170116socialicons_re.jpgimage: rvlsoft / Shutterstock, Inc.

人はインターネット上に第二の言論・視聴覚空間を作り、住所を持ち、デジタル空間にもう一度生まれた。見ているもの、聴いているもの、その日の様子は瞬時に共有できるようになった。この地上で、誰もが発信者であり表現者となった。デジタルヒューマンに必要だったものは明らかに、インターネットとオーディオビジュアルで接続できる第二の目と耳であった。それは前世紀の映像システム――目と耳の体験を電波に乗せて大衆発信する装置になぞらえるなら、「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」への大きな舵きりの一つである。映像の世紀は、コンピュータという魔術的ブラックボックスによって、そして個人の手の中に握ることのできるサイズで拡張された。

そのダイナミックな変化がわずか10年で為されたのだ。

AirPods」:2017年、手を使ったダイレクトマニピュレーションから音声コミュニケーションへと操作系がシフトする契機になるだろうか?

「楽観的シンギュラリティ」と「テクノフォビア」

2016年は楽観的シンギュラリティの年だった。計算機技術の進展によって人間の知的処理能力に匹敵する知的機能がインターネットの側に備わりつつあり、その精度と適応範囲は日進月歩だ。コミュニケーション、ロボティクス、ファブリケーション、バイオ、オーディオビジュアルへの展開によって、日々の生活のあらゆる物質的表層(マテリアル)や実質的表層(ヴァーチャル)がインターネットやコンピュータとの境界面になった。

昨年の記事にも書かせてもらったが、世間を賑わしたこれらのニュースに関して、個々の技術的進歩に限定すれば、我々は比較的好意的だったと言えるだろう。個々の技術発展が人間の能力を超えていく、この「個々のシンギュラリティ」という点については、好意的に受け取った1年だったのだと思う。

Magic Leap:今後、現実のあらゆるものが、物質か実質かの区別なく操作されていくだろう、それを何と呼ぼう? 僕は複合現実(Mixed Reality)というよりも新たな自然「デジタルネイチャー」と呼んでいる

人の技術をコンピュータが超えていくことによって、コスト削減と多様な生活スタイルがもたらされうることを想像し、胸を躍らせた。誰もが海外旅行に行って言葉が通じ、好きな国の人とSNSで繋がって対話することができ、写真や絵を描く際もアプリのサポートが得られる。言語の壁が崩れていき、表現も民主化していく。そこに夢見られるのは平等に豊かで多様な生活だ。人が専門的修練の上に知的技術を習得し、その恩恵として独占的に担っていたタスクが、計算機技術とインターネットのもたらす民主化によって「解放」されていくこと――。持てなかったことが手に入ることを、多くの専門的修練を持たない人々は歓迎してきたのだ。翻訳者に頼らずとも精度の高い翻訳がされうることを歓迎し、誰かに絵を描いてもらわずとも描画や写真アプリによるコンテンツ作りのしやすさを歓迎した。

The Next Rembrandt』:ディープラーニング(深層学習)によってコンピュータが描き、3Dプリントで出力された"レンブラントらしい"絵画。2016年、深層学習を用いた機械学習によって翻訳機能は格段に向上し、描画システムはこれまでにない表現を我々にもたらしてくれる

しかしこのような技術的発展からは漠然とした不安が生まれる。次は自分の番なのではないか? 次は自分の専門的修練が、コモディティをもたらすインターネットに接続された機械によって飲み込まれていくのではないか? 自分が「特権的に得てきた何か」も「民主化」されてしまうのではないか?

その誰もが持ちうる漠然とした不安感。この数年間、識者たちはそれを煽ってきた。明文化することのできない不安から不安のみを抽出することによって、そして、その技術革新による明るい展望を明文化しないことによって、メディアは不安を扇動的に切り出す。締めの言葉は必ずこれだ――「人は人間にしかできない、クリエイティブなことをして過ごせばいい、幸せを考えよう

これにはいささか問題を感じている。結局のところ、バズを狙ったニュースでの識者の人工知能についての記述の多くは恐怖を煽るのが目的だ。不安を用いて衆目を集めPVを稼ぐような台詞回しが多く、結論はクリエイティブという掴みどころのないものを表題にしてやり過ごす。これは変化を嫌うテクノフォビア(テクノロジー恐怖症)を時にあやし、時に恐怖に陥れることで得られる、建設的でない衆目の集め方――「呪い師」の役割を多くの専門家やメディアが担ってきたのだ。

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illustration: Danomyte/Shutterstock

イ・セドルを囲碁で打ち破ったのは機械ではなく、囲碁の専門家ではないが、コンピュータ親和性の高いエンジニアリングの専門家だ

2040年に職がなくなるという漠然とした展望に何の価値があっただろうか? その多くは前世紀の終末論に似ていた。

人々は共通の疑問を持つようになった。「将来、人工知能に職が奪われたら人間はどうやって暮らしていったらいいですか?」「ベーシックインカムが導入されて働かなくてよくなるから好きなことして暮らせばいいんですか?」。こういった質問を講演するたびに受けた。これに対しては、以下のように述べてきた。

『スマートフォンは、たった10年で我々の生活習慣を変えてしまった。人はインターネット上に第二の言論・視聴覚空間を作り、住所を持ち、デジタル空間にもう一度生まれた。この地上で、誰もが発信者であり表現者となった。 さて、ではそのシステム変化で、我々は全体としてどんな新しい金脈を掘り当てただろうか?

ことローカルの問題について考えれば答えは芳しくない。いつでもどこでもつながるインターネットは新たな産業を多数生み出したが、その多くは情報化と機械化によるコストカットであり、特殊技能や特権価値の民主化であった。それによって産業の一部は衰退し、一部は大きくなった。しかし、ローカルの日本について考えれば、我々は世界を制するようなソフトウェアプラットフォームを持っていない。

スマートフォンはそのハードウェアのみではなく、アプリストアとクラウドの連携したOSによって、インターネット上に帝国を完成させた。今我々の上にのしかかる新たな帝国支配は、アプリストアの売り上げの3割を税収前に奪い、リンゴの形をした帝国と緑色のロボットによって守られた帝国へと差し出す。この割合は初期の東インド会社による英国のそれを思わせる上納金だ。つまり、西海岸を中心としたイデオロギーによって新たな帝国支配は完成したのだ。そしてどこのローカルも同じ問題にぶつかり得る。我々がアメリカ大統領選で見た二色のアメリカは、有価証券とITの帝国支配によってもたらされる「青いアメリカ」と、ローカルな「赤いアメリカ」の対比でもあった』

170111electionresult_politico_mini.jpg2016年米大統領選挙:票数ではヒラリー・クリントンが勝利し、大統領選ではドナルド・トランプが勝利した(screenshot: Politico

『さて、この世界のどこにベーシックインカムで暮らせるローカルが存在するか。それは青いアメリカにある。人間が人間にしかできないこと――クリエイティブな活動をすることで余暇を潰すことで生きていくような世界は、そしてそれを可能にするほどの富が集まる場所は、そこにしかないだろう。他のローカルは機械の歯車として人間も働き続けるのだ。富を生み出すために、インターネットの端末に混ざって生きていかなければならない

その上で、持たざるローカルに所属する人々が2040年の世界をぼんやり想像しながら過ごす余裕があるだろうか? 少なくとも我々にはないはずだ。機械との親和性を高めコストとして排除されないようにうまく働くか、機械を使いこなしたうえで他の人間から職を奪うしかないのだ。この構図は機械対人間ではなく、「人間」と「機械親和性の高い人間」との戦いに他ならないのだから。イ・セドルを囲碁で打ち破ったのは機械ではなく、囲碁の専門家ではないが、コンピュータ親和性の高いエンジニアリングの専門家だ。チェスでも、馬車対自動車でも、科学医療と呪い医療でも、そういった戦は起こる。それに対して人は順応してきただけなのだ』

LipNet」の読唇術は人間に打ち勝った。ディープラーニングをはじめとした機械学習の発展は、機械vs人間ではなく、「機械に強い人間」と「機械を用いない人間」のゲームを見せる。そして発話することのない音声コミュニケーションを可能にするなど、新たな人間性を開拓していく

『ここには「クリエイティブなことをして過ごす」というあやふやな結論は存在しない。計算機親和性をあげて他の人間よりも多くを成すことしかできることはない。それは、機械を使う側になるか、機械に組み込まれる側になるかの問題であり、機械に対抗する側はニッチなエンターテイメントかニッチな商品にしかなり得ない(しかしインターネットによって販路とコミュニケーションコストが下がった今、その価値もある一定は存在する)。機械が人と同様に自律的に社会に参画する時代より前に考えなければならないのは、人対人の終わらない争いだと思う』

明後日のことを考える前に明日のことを、そして今日のことを、願わくはそれが地続きであるように今を起点として、見通せることを考えていかなければならない。明るいディストピアは願ってもやって来ない。むしろ今より悪くなった日常が続くだけだ。

テクノロジーの流動性がもたらす「プロトピア」

そういった議論の中に身を置いて繰り返すうちに、テクノフォビアを生み出していくことようなメディアのあり方に疑問を持つようになった。「ああやっぱりテクノロジーに適応した人類は今より悪くなっている」と言いたい気持ち、そういった感情をなぞることで頭の中だけテクノフォビアになる。実際はどうだろうか、当人たちはIT機器に囲まれたまま、FacebookやTwitterを通じて情報にアクセスし、テクノロジーによってもたらされるコミュニケーションやコミュニティのあり方を批判しつつもその恩恵に預かるというチグハグな状況が生まれる。そういった根拠のないテクノロジー悲観論は、日常をより悪くしていくだけだ。

2016年に、個人的に印象的だった昨年の出来事の一つにケヴィン・ケリー氏(元WIRED創刊編集長、『テクニウム』著者)との対談がある。氏の著作である『〈インターネット〉の次に来るもの』の日本語版の発刊に際したイベントで、訳者の服部桂さんのご好意で対談とパネルを組んでいただき、存分に対話することができた。私の質問は一つ。「テクノフォビアとどうやって向き合うのか」ということだった。

著書の中で、氏はユートピアとディストピアとは違った未来に「プロトピア」という名前をつけている。プロトピアは技術革新を繰り返す流動性によって徐々に良くなっていく世界観であり、自己組織化した画一的でない「まともなディストピア」の姿でもある。言うなればある種、楽観的なテクノロジー思考だ。しかしながら、その現象について避けられない性質であることを認めたうえで、その性質について論じるスタイルの著書だった。

この話を聞いたときに、一定数存在するテクノフォビアとどうやって向き合うのかが一番大きな問題のように思えた。起こりうるディストピアやプロトピアより、その最大の障壁はテクノフォビアそれ自体であるように感じたからだ。閉塞したシステムではなく、システムの変化を憎むテクノロジー嫌いの権力のほうが恐ろしい。民主化を阻む権力は、より歪な格差を生み出す

その質問についての対話の中で、テクノフォビアとは対話して向き合っていくしかないが、テクノフォビアも時代とテクノロジーへの適応の中で忘れ去られ淘汰されていく場合もあるという議論を交わしたのを覚えている。時代は戻らないから、人類の技術に対する適応という事柄について我々はしっかり考えていかなければいけない。2017年の我々は少なくとも悲観的なディストピアより、テクノロジーの流動性がもたらすプロトピアへ向かっていかなければならないのではないだろうか。

我々は核なき世界に向かっているわけではない。核ある世界に適応した結果、核のことを以前の人類より理解し、「核を学習したクリーンエネルギーの世界」に向かっている

テクノロジーと選択について議論するときよく原子力のことを例に出される。原子力は失敗だったか? クリーンエネルギーは核なき世界を実現するか?

ここでよく思うのは、我々は核なき世界に向かっているわけではなく、核ある世界に適応した結果、核のことを以前の人類より理解し、核を学習したクリーンエネルギーの世界に向かっているだけだ。人類の電力消費量は減少しておらず、核使用以前よりも効率的に「人類にとって都合のいい」エネルギー資源の活用法に移行しただけだ。時代は過ぎるだけであり、長期的には適応のみが残る。発展したテクノロジーのとってその発展を忘れ去らせるための(科学でいう)オッカムの剃刀のようなものは存在しない。

テクノロジーは発展したまま戻らないのだ。

バラク・オバマ大統領広島演説』(全訳 via ギズモード・ジャパン):技術はなされる、人は適応していく

>> 後編に続く

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