◆藤井盛光君 無所属の藤井盛光でございます。請願第3号柏崎刈羽原発の再稼働を認めず廃炉を求めることに関する請願は、総務委員会で不採択と評価されました。私も不採択という委員長の報告に対し、賛成の立場で討論に参加いたします。
 まず、本請願は、その趣旨である原発の廃炉により我が国がこうむる負の側面を全く考慮しておりません。少し時代をさかのぼりますが、1955年に原子力基本法が成立し、1963年に日本で最初の原子力発電が行われて以来、我が国は半世紀もの間原子力を利用してきました。なぜでしょうか。それは、エネルギー資源の確保が国家の安定には必須だからです。我が国はさきの戦争で米国と戦い、敗れましたが、この戦争の直接の引き金は米国による石油封鎖です。当時の日本の石油の輸入依存度は1935年には90%を超え、対米依存度は8割にも達していました。この状況で石油を断たれれば国防も重工業も窒息死することは自明であり、その対策を怠ったことが日米開戦の主要因であるということは論をまちません。過去の戦争に学び、教訓を生かすというのであれば、一番大事なことはエネルギー資源の供給元及びエネルギー生産手法を分散化し、リスク変動の幅を極少化することです。少し歴史の講釈のようになりましたが、現在においても同様の問題は存在し続けています。石油に依存し続ければ甚大なオイルショックを招きますし、石油に限らずどの発電方法であれ完璧なものはなく、リスクは必ず存在します。ある発電方法への過剰な依存を避けてリスクを分散化させ、システムの頑強性を維持すること、すなわち発電方法の多様化が重要です。既にエネルギー源として十分な実績があり、資源の供給元が多く、燃料備蓄に有利で発電効率が高い部類に入る原子力発電の放棄を求める本請願の趣旨は、歴史に学ばず、我が国の安定を脅かし、結果的に国益を損ねると考えます。
 次に、核のごみに関する認識についてです。本請願では、処理する方法のない核のごみという表現が用いられておりますが、これは非常に一方的な認識です。まずは、原発からどれぐらいの量の核廃棄物が生成するかですが、柏崎刈羽原発にある100万キロワット級原発1年分の使用済み燃料棒は約10メートル四方におさまります。100年分であっても、100メートル四方のスペースで収容が可能であり、地下などに立体的に配置すればさらに狭い土地で収容が可能です。全く何も手を加えずただ置いておくだけでもこの程度のスペースで済むわけですから、再処理が加わればさらにその量は減少するわけでございます。放射性廃棄物の処分は世界各国がしのぎを削ってレベルを高めており、資源エネルギー庁の発行する「諸外国における高レベル放射性廃棄物の処分について」によりますと、スウェーデン、フィンランド、フランス、ドイツ、スイス、英国、カナダ、米国の進捗状況が確認できます。興味深いことに原子力発電の段階的撤廃の方針を示しているドイツでも、高レベル廃棄物処理の技術は進められております。再処理後のガラス固化体が数万年のオーダーで高レベル放射能を持ち続けるということは事実であり、その地中保管を心配する声もありますが、例えば化石などは数億年間その状況を維持しているわけでございまして、十分な調査に基づく地層の安定性には科学的な根拠があります。こういった現状維持のための必要なスペースの確保、現在進行形の世界的な技術開発、さらには人類の技術革新を考えれば、本請願中の処理する方法のない核のごみという表現は不適当であります。
 次に、原発はなくても電力は足りているという表現についてです。本請願に限らず、原発の必要性を否定する議論の多くが電力不足の誤謬を取り上げています。いわく原発が全て停止していても猛暑の夏を乗り切ったという言い回しですが、実によく耳にいたしました。原発の力をかりなくてもぎりぎりで電力供給は足りたということは事実です。しかしながら、ぎりぎりで足りたということは、それ以上の電力供給には応じられないということを意味します。産業の発展とは電力重要が増加することと同義であり、ぎりぎりで足りているということは産業発展、経済発展が望めないということを意味します。また、需給の関係からいっても、電力料金が高どまりするということは安価な電力を求める各種企業にとって日本国は魅力に乏しいと映るでしょう。資本の流入がとまり、国内産業は海外移転し、就職先が減少し、活気の失われた未来を我々は望むのでしょうか。電力がぎりぎり足りたといって喜ぶのはあまりにも短絡的であり、この点をよく考える必要があると私は考えます。
 次に、再生可能エネルギーによる原発代替についてです。粗く見積もって柏崎刈羽原発1基の発電能力を代替する太陽光発電所の面積は100平方キロメートルであり、全7基を置きかえると700平方キロメートルが必要になります。参考までに長岡市の面積は約840平方キロメートルですから、少し考えれば原発を即事廃炉した後に短期的に太陽光で代替することは大変困難であるとわかります。風力、水力、地熱なども、原発の代替整備をするということにおいては同様の議論が成り立ちます。また、再生可能エネルギーの推進は本請願書にあるような雇用や地域経済の活性化ではなく、逆の効果もあることを理解する必要があります。ごく短期的には、柏崎刈羽原発が廃炉になれば原発関連の雇用が失われ、地域経済が冷え込むことは明らかです。また、中・長期的にも、脱原発を表明したドイツにおいては、本年2月に環境大臣が再生可能エネルギーへの転換には今後20年で120兆円かかると試算を公表しました。さらに、対応したインフラ整備には35兆円が必要とのことです。再生可能エネルギーの買い取り価格を高く設定することにより電気料金が高騰し、低所得者の家計を直撃しているという現状も無視できません。以上のように再生可能エネルギーの導入は、バラ色の未来を約束するものでは決してないわけでございます。本請願は、脱原発を目指す余り、その結果もたらされる負の側面に対しては全く考慮されていないと言わざるを得ません。
 核兵器廃絶の崇高な理念を掲げてノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領は、他国が核を捨てない限り米国は核を捨てない、自分が生きている間は無理だろうと極めて現実的です。また、ドイツは脱原発を表明したとはいえ、現在でも新しい9基の原発は稼働中であり、脱原発も今後の行政いかんです。政治は、美辞麗句に惑わされず、社会の現実を見据える必要があります。絶対安全な原発はありません。また、リスクのない発電方法も存在しません。そういう現実社会に生きる中で、歴史に学び、極端に走らず、既存のインフラを最大限に生かしていくということが国益にかなうと私は考えます。
 また、私は人類の科学技術を理解する一人でもあります。いかに困難な問題であろうと、人類はそれを克服することにより今日の反映をかち取ってまいりました。原子力に関しても半世紀を経て技術的には成熟したレベルにあり、これをさらに精度を高めていくことは比較的容易です。問題は不信感、不安感と政治的対立であり、その解決にしっかりと取り組んでいく必要があろうかと思います。
 ここまで長々と委員長報告に対し賛成理由を述べましたが、これは1万3,451名の長岡市民から上げられた要望であるということを真摯に受けとめ、その要望に反対する理由をしっかりと説明する必要からのものであり、御容赦いただきたく存じます。
 以上、請願第3号柏崎刈羽原発の再稼働を認めず廃炉を求めることに関する請願は、委員長の報告に対し賛成いたします。