同性同士で結婚が出来るライフパートナーシップ登録法から10年
日本では市民権を得ていないが、ドイツでは・・・
ホモとレズの話だ。日本では同性同士のカップルはまだ市民権を得ていないので、話を始める前に、まずその定義から。
ここでいうホモとレズというのは、男が女装したり、女が男のようにふるまったりすることとは違う。彼らは単に、異性ではなく同性を愛する人たちで、それ以外は、別にごく普通だ。
日本人では、ホモのカップルというと、一人がなよっとして女言葉を使うとか、レズなら片方が宝塚の男役ように凛々しいとか、いろいろ勘違いしている人が多いが、そういうケースは一般的なホモ・レズの常識からは外れる。普通なら、彼らが公衆の面前でいちゃつかない限り、傍目にはホモやレズだということは、ほとんどわからない。
なお、「セックスに興味がなくなっちゃったから、私も気分はレズよ」と言った友人がいたが、これも勘違いの一つ。ホモもレズも、カップルの間には性交渉があることが前提。つまり、ホモやレズのカップルとは、夫婦の同性版だと思えば間違いはない。
同性でも異性でも変わらぬ気持ち
ドイツに新しい法律ができて、同性同士で結婚できるようになったのが、ちょうど10年前の8月だった。この法律は、直訳するとライフパートナーシップ登録法といい、同性のカップルも管轄の役所に届けを出し、それが受理されると、今まで恋人、あるいは"内縁"の関係であったものが、法的に拘束力のある"婚姻"の形になる。
正確にいえば、ライフパートナーシップと結婚は100%同一ではないから、婚姻という言葉は正しくないかもしれないが、いずれにしても、同性のカップルも夫婦と同じく世帯を持ち、同じ名字を名乗りたければ名乗り、財産を共有し、互いの面倒を見合い、片方が亡くなればお葬式を出すといった様々な権利と義務を持てるようになった。その代わり、別れる時も普通の離婚とほぼ同じほどの面倒な手続きが必要だ。
ともあれ、2人の関係を、愛情からにしろ、打算からにしろ、いつしか法律によって拘束、あるいは、保護したくなる気持ちは、同性であろうが異性であろうが変わらない。
先週、元東独のライプツィヒで、そこに住むレズのカップル、BとUと一緒に食事をした。私はBを25年も前から知っている。敬虔なプロテスタントの家庭で育った女性だ。知り合った当時、彼女はまだ高校生で、そのあと大学で神学を勉強し、プロテスタントの牧師になった。今はもうすっかり貫禄が付いて、白髪がぽつぽつと目立つ年齢だ。
彼女がレズだと聞いたのは3年前のこと、カミングアウトが3年前だったのだ。驚いたのは、私だけではなかったはずだ。恋人Uも牧師で、すでに20年来の仲だそうだが、ようやくカミングアウトのあと一緒に暮らし始めた。来月には結婚するという。
ホモやレズのカップルを見るといつも思うが、世界が2人きりで完結してしまっている。具体的にいうと、まなざしが穏やかで、2人で見つめ合っている時間が長く、しかも、見つめ合いながら微笑んでいる。そして周辺には、いつしか優しい空気が充満する。
とはいえ、優しさの中に強い意志も感じられる。おそらく、いろいろな偏見や攻撃を受けるたびに、2人で寄り添って、かばい合いながら、強く生きてきたに違いない。
「結婚といってもね、まだまだ普通の夫婦とは違いがあるのよ。たとえば、所得税の優遇がないし、年金にも差がある」と、やはり穏やかにBが言う。私に向かって話しているはずなのに、その視線はまたUに移り、優しく微笑む。それを見ながら、(普通の夫婦で20年も連れ添っていたら、この親密さはとっくの昔に消えているなあ)と、つまらないことを思う。
「法律にはそれぞれ意味があるのよ。夫婦が優遇されてきたのにも意味がある。もちろん、時代が変わり、事情が変われば、法律もいずれ変わっていく。でも、女性が参政権を得るまで、どれだけの時間が掛かったと思う? こういう抜本的な法改正は、新しい祝日を作るのとは訳が違うわ」と私。
彼女たちと一緒にいても、別に違和感も嫌悪感もない。人に迷惑をかけず、社会人としての義務を果たし、社会に何らかの形で貢献するならば、皆が好きなように暮らせばいいと思う。しかし、同性のカップルの権利を、すぐさま夫婦のそれと全く同じにするべきだと主張する気は、今の私にはない。正直なところ、今はまず、これぐらいでいいのではないかと思っている。
Bが言う。「夫婦が優遇される理由は、子供でしょう。だから、結婚して子供を産み育てる女性は、働かなくても優遇された。でも、今の夫婦は子供を産まないわ。かえって、ホモやレズの夫婦が子供を欲しがっている。なのに、私たちは結婚しても、養子を取ることができないの」