前回(ウォーターゲート事件のディープスロートさえ「オフレコ」取材ではなかった)書いたように、日本では意味があいまいな「オフレコ」取材が日常的に行われている。結果として、新聞紙面は匿名や仮名であふれている。
なぜなのか。新聞社は都合のいいように発言をつまみ食いするだけでなく、発言内容にも勝手に手を加えるから、怖くて実名で語れない---こんなマスコミ不信があるのではないのか。
日米のジャーナリズムの現場を点検すると、オフレコ取材の定義と並んでコメントの引用手法に大きな違いがあることが分かる。アメリカと違い、日本では「コメントを正確に引用する」という報道慣行が根付いていないのだ。
それを裏付けるような"事件"が相次いでいる。1月5日には、インターネット動画サイトの「ニコニコ動画」に民主党幹事長の岡田克也が生出演し、元民主党代表の小沢一郎の「政治とカネ」問題などについて語った。昨年11月3日には小沢が同サイトに登場している。
出演理由について、番組中で岡田は「ニコ動は編集しないで全部流すのがいい」と語り、小沢は「新聞、テレビが正確に真実を報道していただけないので整理したい」と語っている。
岡田がニコニコ動画に出演した5日には、広島市長の秋葉忠利が記者クラブでの退任会見を拒み、動画投稿サイト「ユーチューブ」へ動画を投稿したことが明らかになった。前日には地元テレビ局の生放送に出演している。生出演ならば編集される恐れはない。
日本では、記者会見やインタビューなどでの発言が大幅に編集されて新聞紙面上に載ることが多い。ここでの「編集」とは、紙面上の制約から発言の一部だけ抜き出されるという意味に限らず、発言自体に手が加えられるという意味も含む。
カギかっこ内での直接引用であっても、「話し言葉」が「書き言葉」になったり、「ですます調」が「である調」になったり、書き手の都合によって自由自在に変化する。「ですね」が「である」に変わるだけなら本質的な問題はないが、編集の行き過ぎで発言のニュアンスが大きく変わる場合もある。
2000年代の半ば、日本経済にデフレ脱却が兆しが見え、日本株が上昇基調に入ってきたころのこと。新聞社に勤めていた私は株高の動向を取材するなか、投資ファンド代表者に話を聞いた。そこで得たコメントを要約すると、こんな内容だった。
「うちの基本哲学は割安株投資。デフレの時期に安値で買い入れた銘柄が大幅に値上がりしています。今から買うのではタイミングとしては遅すぎるでしょう」
これをメモにして新聞社の「株高連載取材班」に手渡したところ、実際の紙面で「今は売り時」という発言になった。私は「メモ出し」で協力しただけで、取材班の一員でなかったことから、チェックする機会を逸してしまった。
案の定、投資ファンド代表者からは猛烈な抗議を受け、信頼を失った。「こんな使われ方をされるなら二度とコメントしない」。ところが訂正は出なかった。数字や名前の間違いでない限り、大新聞が訂正を出すことはめったにないのである。
記事を再点検する「ファクトチェッカー」
そんな日本の基準からすると、アメリカは異常なほど厳格だ。「ファクトチェッカー」と呼ばれる専門家集団もいるほどなのだ。
1980年代後半にコロンビア大学ジャーナリズムスクールに在学中、指導教官に案内されてニューヨークの雑誌社を訪問する機会があった。「あの一角がファクトチェッカーのグループ」と言われ、驚かされた。そこには、資料の山に囲まれながら電話にかじりついている集団の姿があった。
ファクトチェッカーは、誤字・脱字などをチェックする校閲記者とは違う。記者から取材ノートや録音、資料を取り寄せ、専門家の立場で事実関係を再点検するのだ。日本の報道機関では見られない専門職だ。ファクトチェッカーは「リサーチャー」と呼ばれることもある。
特に大事なのが、原稿の中で引用されているコメントのチェックだ。録音がなければ取材ノートと照合し、取材ノートが不完全であれば発言者に直接電話する。「本当に記者にこう語ったのですね?」などと再確認するためだ。
ファクトチェッカーは、毎日の締め切りに追われる新聞社よりも、時間的に余裕がある雑誌社に向いた職種だ。チェック作業に何日も時間がかかるのはざらだからだ。高級誌「ニューヨーカー」のファクトチェッカーは特に格が高く、ファクトチェッカー出身の著名ジャーナリストも多い。
調査報道など長期プロジェクトであれば、新聞社でもファクトチェッカーは活躍できる。前の記事(調査報道支えるリサーチャーと「ディープウェブ検索」)でも触れたように、ワシントン・ポストの調査報道を支えるリサーチャーは「事実をチェックする」ばかりか「事実を探し出す」頼もしい存在だ。
アメリカのメディアがコメントの引用にこれほど厳格である理由は単純だ。いい加減に引用すると、発言者から「こんな事は言っていない」などと指摘され、最悪の場合は訴えられかねないからだ。
もちろん、コメントの引用に厳格だからといって一切編集しないというわけではない。コロンビア大学ジャーナリズムスクールで私の指導教官だったブルース・ポーターは、著書『プラクティス・オブ・ジャーナリズム(ジャーナリズムの実践)』の中で、「語った言葉の味わいや意味合いを損ねないよう細心の注意を払わなければならない」と指摘している。