Vol01 1992年~2000年 “ゲスト”から対等の存在へ

若田光一が宇宙飛行士候補になったのは今から19年前、28歳だった。
(画像提供:JAXA)

 若田光一が、笑顔で宇宙飛行士候補者の会見に登場したのは1992年4月のこと。「やけに親しみやすい宇宙飛行士が誕生したぞ!」というのが最初の印象だった。7年ほど前に選ばれていた宇宙飛行士の1期生――毛利衛、向井千秋、土井隆雄とはずいぶん雰囲気が異なっていたからだ。それもそのはず、1期生は宇宙で行う「科学実験の専門家」として選ばれた学者肌の人々だったが、若田に求められたのは「技術者」としての技量と協調性だったのだ。なぜそんなふうに方向性が変わったのだろう?

 当時は、米国のスペースシャトルが活躍していた「シャトルの黄金期」。米国、日本、欧州宇宙機関(ESA)、カナダが協力して国際宇宙ステーション(ISS)を建設することも決まっていた。世界が宇宙開発に力を注ぐなか、日本はNASAの協力を得て有人宇宙飛行を始めようとしていた。毛利衛が日本人で初めてスペースシャトルで宇宙へ飛び立ったのも、若田が選ばれた5カ月後のことだった。

 毛利ら“1期生”と若田は、NASA宇宙飛行士の分類で異なる種類に属している。1期生3人は「ペイロード・スペシャリスト(PS)」。スペースシャトルで行う実験の専門家であり、シャトルの操作には関わらない「ゲスト」的な立場だった。1980年代、ESAのニコリエ宇宙飛行士以外でNASAが外国人に門戸を開いていたのはこのPSだけだったため、日本はまず宇宙実験に参加し、宇宙飛行の実績を積もうと1期生を選んだ。

 その後、NASAは外国人に宇宙飛行士の門戸を広げる。若田は、ロボットアーム操作や船外活動などスペースシャトルの主要な仕事を担う「ミッション・スペシャリスト(MS)」に、日本人で最初になった飛行士だ。MSになるには、NASA宇宙飛行士養成クラスに参加して、シャトルの複雑なシステムを熟知し、操縦にかかわるシミュレーション訓練などを受けなければならない。米国人の訓練生に囲まれて、訓練をこなすには相当の苦労があったのではないだろうか。

宇宙飛行士養成クラスでウォーター・サバイバル訓練を受ける若田。
(画像提供:NASA(2点とも))

若田:最初はほかの訓練生との差を感じましたね。特に苦労したのは現場の英語。シミュレーション訓練では「エンジンが止まった」、「コンピューターに異常発生」など次々とトラブルが出されるのですが、専門用語が多いし、複雑なシステムを理解していないと、刻々変わる状況についていけない。

たとえて言えば「戦争映画の戦闘シーンの英語」なんです。必死に予習してもなかなか英会話は理解できず、最初の9カ月くらいはものすごくきつかった。シミュレーションでシャトルを墜落させてしまうこともあり、これで本当に宇宙に飛べるのかとストレスがたまりました。ホームシックにもなって、自宅へ帰る車のなかで思わず「ぽっぽっぽっ、はとぽっぽ」と日本の歌を口ずさんだりもしましたね(笑)。