北の創造者たち展

 札幌を中心に活躍する、1958年から73年生まれの作家7人による展覧会。まさに、道内の現代美術の今の水準を示す好企画だと思う。  というのは、たぶん端聡さん以外は、美術館での発表は初めてであり、学芸員が日常の忙しい仕事をぬって、個展や公募展の会場などで、足で探し出した作家ぞろいなのだ。とにかく、そのフットワークには頭が下がります。
川上りえ かわかみ・りえ
鴻上宏子 こうがみ・ひろこ
佐々木秀明 ささき・ひであき
古幡靖 ふるはた・やすし
藤本和彦 ふじもと・かずひこ
新明史子 しんめい・ふみこ
端聡 はた・さとし
 というわけで、7人に共通する作風があるわけではない。一人ずつ紹介していこうと思います(文中敬称略)。

川上りえ

1961年生まれ
 美術作品を見るときのポイントって、二つあるんじゃないかと思う。ビジュアル(見た目)とコンセプト(発想。テーマ)。
 現代美術だと、どうしても作品の前で腕組みして「うーん、この作者は何を言いたいんだろう」って考えちゃいますよね。それは間違いじゃない。でも、それだけじゃつまんないし、正解が文字でばっちり表現できるものだとしたらわざわざ美術作品なんかにしないで、文章にするはず。
 川上のこの作品は、とにかく見た目だけでも、十分すごい。約10センチ四方の鉄格子に、酸化処理を施してさびた鉄板を張りつけている。手前は鉄板がびっしりと覆っているけれど、向こう側に行くにつれて、斜めになったり、鉄板が無くて中が透けて見えたり、しまいには鉄板が床上になだれこんでいて、すごくダイナミズムに富んだ作品になっている。およそ、90×90×550センチ。
 実は、もう一つ同タイプの、10センチ四方の格子による作品があり、こちらは奥行き30センチ、高さ270センチ、幅730センチ(いずれも評者観測)。やっぱり、巨大。鉄がさまざまな表情を持ちながら、秩序から無秩序へとなだれこんでいるのは、共通している。
 「有機的なものの中に存在する無機的な要素、無機的なものの中に存在する有機的な要素。両者の依存から生まれた、独特の空気を表現したい」(学芸員によるインタビュー)

On the surface of the Earth

 と、作者は言ってるわけだけど、見る人はここに何を見てもOKなんだと思う。
 季節の移ろい。
 破壊と建設を繰り返す街。
 膨張する宇宙。
 ただ、とにかく、鉄の物質感、存在感には、なんだか圧倒されてしまう。1986年だったか東京・京橋のアキラ・イケダ・ギャラリーでリチャード・セラの個展を見たことがあるけれど、あれよりすごいと言ったらほめ過ぎかな。
 また、正方形の格子といえば、ジェニファー・バートレットなんかもそうだけど、日本の民家にもありそうだ。
 ひとつ指摘しておきたいのは、彼女がけっこう、展示空間というものを考えてから作品にとりかかるということ。今回も、展示場所の図面を見てから着手したらしい。1998年に札幌市資料館で開いた個展では、彼女のもうひとつの作品系列、つまり、ワイヤーという素材による人体を六つ並べていたけれど、古い建物の空間に妙にマッチしていたのを思い出す。

ワークショップ「作家と観客によるコラボレーション」

1月7日
美術館エントランスホール
 小さな穴を無数にあけた直径170センチほどの円筒形の鉄板に、アルミや鉄の針金を自由に通したり、結わえたりしてもらおうというもの。単純ですが、けっこうハマリます。チェーンのようにいくつも輪をつなげた人、上へと針金を伸ばした人、表面を這わせた人などさまざま。その形状から、人と人とのコミュニケーションの暗喩みたいな感じもするけれど、川上さんは「個々の意思の集積でできる作品に興味があるんです」。8日以降も会場に置いて来館者に参加してもらう予定。「表面が見えなくなるくらい、びっしりになったら面白い」

トップに戻る


鴻上宏子 1967年生まれ。

鴻上宏子作品の一部 鴻上も、今回はこれまでで多分最も広い会場を割り当てられ、それをフルに生かしたインスタレーションになった。
 中央に、FRP製の大きな人体。FRPは、プラスチックの一種で、最近はブロンズの代わりに彫刻で使われることが多い素材だ。右の写真ではあまり写ってはいないんだけど、床には、15メートルの帯をはじめ、花のような石膏が散らばっている。
 解説によると、それらの石膏は、中央の人体の表面から型取ったものとのこと。花のように見える石膏は左胸から、15メートルの帯は腕や足から取ったものを反復してつなげたものだという。

  なるほどね。
 最近の彼女は、彫刻を作るプロセスに関心があったのは確かだ。
 昨年、札幌のさいとうギャラリーで開いた二人展でも、同じ型から取った、崩れ具合の異なる人物像を四つ並べていた。同じ彫刻なのに、微妙に違うのが面白かった。

 もちろん、難しいことは考えなくても、床の上に自由にばら撒かれた石膏は、それこそ題名の雨の雫のように、リズミカルに美しい。


「奏でる雨の器」

「(人体の)中身は空間、空虚ですが、誰かがそこに何かを詰めていける」
 (学芸員によるインタビュー)

 そういえば、彼女が昨年あたりから制作している連作「空の器」はいずれも中が空洞で、昨年の道展(北海道美術協会)に出品した作品なんかは、ちょうど顔の部分がすっぽり空いていて、ぎょっとしたものだ。

 こう見てくると、彼女は、現代において「彫刻」を作ることの困難さを、かなり引き受けた上で創作活動をしてるんじゃないかという気がしてきた(以下、ちょっとムズカシイ話)。

 グリーンバーグがモダニズムの絵画について述べたことで彫刻にあてはまるものがある。それは、再現的イリュージョンの批判である。絵画において、「判別できる立体的なモノが存在できる空間」が放棄されたのだが、彫刻においてはそれはヴォリュームなのである。何故ならば、ロダンであれマイヨールであれその人体彫刻が、その表面だけが人体のかたちをしており、中には何もないということはだれでも知っているからだ。
(小西信之「廃棄される彫刻」 藤枝晃雄+谷川渥編・著『芸術理論の現在』東信堂所収)

 

何でこんなことを書いているのかというと、裸婦像、とりわけトルソ像(彼女も昨年の「さっぽろ美術展」に出品してたけど)なんていうのは、すごく「彫刻」という制度に乗っかったものだと思うからなのだ。台座もそう。
 だってそうでしょ、現実社会では、風景が金ぴかの額に収まることのないように、人は裸になって台の上に乗ったりしない。とくにトルソなんてのは、彫刻業界でしか通用しない妙な表現だと思うからだ。マッスがどうの、ボリュームがどうの、という言説も然り。
 もちろん、それらは、従前の彫刻が、現実の単なる再現に見えて実はそうでないことの証のようなものでもあるんだけど。
 鴻上の彫刻はとうに台座からは解放されている。そして、中も空洞である。だが、いかにも「現代美術な」表現に安易に走らず彫刻のスキルに基づいた確たる造形の意思を持って創作活動を続けているというのは、けっこう大変なことなんじゃないかと思うのだ。
 なんだかまとまりのない話になってしまってすいません。

 追記。2月4日、あらためて立像を見る。
 やっぱり、彫刻(この作品に限らず彫刻一般)って、おもしろいというか、妙だと思う。
 この作品は高さ230センチ。彫刻が大きさを問われないのはなぜだろう。彫刻に色がないのはなぜだろう(色があると人形になるから、という答えもアリかもしれないが)。女性なのにはげ頭なのはなぜだろう。きりがないのでやめます。

公開制作「彫刻ノ心」

2月4日 講堂
ワックスを塗る鴻上さん

石膏をつける鴻上さん

乾いた石膏を剥がしにかかる
 前半はスライドを使って、彫刻ができるまでの説明。彫刻の制作過程は門外漢にはなかなかうかがい知れないところがあるだけに、興味深いものがありました。そっかー、石膏の型は壊しちゃうんですね。いやはや手間がかかるんですね。これほど複雑な過程自体に関心を抱くというのも、分かる気がします。

 後半は、今回の展示で、立像の周囲に散っている石膏の形をどうやって作ったのか、実演。FRPの人体に、ワックスを塗り=写真上(これがないと石膏があとで剥がれなくなる)、水に溶いた石膏を布と一緒にぺたりと人体に貼り付けます=同中央=。これを8号の針金で補強します。

 かなり太い針金で、鴻上さんはペンチでやすやすと曲げていましたが…。待つこと30分。こんこんと木槌でたたいて、針金部分をペンチでつまむと、ぱかっと剥がれました=同下=。それだけでは花びらみたいな形も、立像の肩や胸の部分から取った形だということが分かりました。

 ほかに分かったことは、鴻上さんははなからデッサンをしないこと、立像の背面にあいている穴は心棒を作る過程で本体を支える棒が当たっている部分であること、心棒はかなりしっかり作らなくてはならないため後から大きな変更はできないこと、などでした。

 今回も30人近い参加者でなかなかの盛況でした。
  

トップページに戻る


佐々木秀明 1958年生まれ

  見た目とコンセプトということでいえば、見た目だけで、あとは何もくどくどしい説明なぞ最もいらないのが佐々木の「雫を聴く」ではないだろうか。人は、この作品に触れて、幻想の世界に浸るなり、癒されるなりすればいい(流行り言葉であまり使いたくないんだけどこれ以上いい言葉を思いつかない)のであって、あれこれ論じる必要はないような気がする。 

 まだ見たことのない人のために「雫を聴く」がどんなインスタレーションなのか少し説明する必要はあるだろう。
 会場は薄暗い。装置はいたってシンプル。一番上に、氷の入った漏斗が並ぶ。氷が少しずつ溶けて水滴が下のシャーレ状の透明な皿に落ちる。皿は小さな電球で下から照らされているので、雫が皿に落ちるたびにそのたびに、背後の白い壁の壁がかすかにゆらめく。静かな会場であれば、ポチャンという水音が響く。
 上の写真は、昨年、アトリエとして使っている石狩市美登位の廃校になった小学校の体育館に展示した際のもの。基本的なつくりは今回と変わっていない。
 ステンレス製の台の上に三列に装置を計20個並べている。ギャラリーの壁の代わりに、和紙を樹脂でサンドイッチした素材(蕎麦屋などによく使われる由)を、繭のような形に切り取って、皿の後ろに置いている。このまるいフォルムが、皿の水の影を映し出すのにはちょうど良いようだ。 氷は、1日1、2回取り替えるという。

 あえて加えるとすれば、この作品の部屋に数十秒しか滞在しないのはもったいないことであり、数分はぼけーっとして、ぽちゃりというかすかな音と、虹色の光のゆらめきを堪能してから会場を離れることをお勧めしたい。
 あるいは、絵画のようにじっくり鑑賞するよりも、ししおどしのように庭かどこかにひそかに設置してあって、水音がするたびに人の気を引くというのが、この作品にふさわしいあり方のような気もする。中央にあって周囲を圧する芸術ではない、東洋的な美術のあり方のようなものが感じられる(論じないと言いつつ論じてしまった)。
 筆者は、かまくらとか、雪の夕暮れというシチュエーションでこの「雫を聴く」を見るのが一番美しいのではないかと空想していたが、鴻上宏子さんに「氷が溶けないじゃないの」と、あっさり論破されてしまいました。

ワークショップ「光の劇場・記憶の器」 3月4日 講堂と展覧会場

 よほどのことのない限り外に出たくない悪天候にもかかわらず盛況だったのは、根強い佐々木ファンが多いということでしょうか。佐々木秀明ワークショップ
 まず、講堂で、各参加者が、水彩絵の具で着色した12色の氷を、紙の上に配置するというのをやりました。
 後で分かるのですが、当然氷は溶けるわけで、氷片の大きさによって紙の佐々木秀明ワークショップ上の色班の大きさも違ってくるし、時には隣の色と混ざり合って微妙な(混ざりすぎると汚い)色合いが生じてくるのです。
 左の写真は氷の段階。右はかなり溶けてきてから撮ったものです。
 佐々木さんは、裏表に中心から角まで線を1本引いただけの八角形の紙を表にしたり裏にしたりしながら話し始めましたが、これが不思議なもので、ひっくり返したときどこに線が引いてあるか予想できないんです。別に紙に仕掛けがあるわけではないんですけど。
 後半は、展覧会場に移って、灯りをすべて消して、5分間、雫の音を聞きました。これも不思議なもので、暗い中で耳を傾けていると、それまであまり聞こえなかった雫の音がどんどん耳に入ってくるのです。
 宮島達男の「メガデス」のように、完全に真っ暗にはなりませんでしたが、あの作品よりももっと心やさしくなれる時間でした。筆者にとっては、あの音は、雪解けの、春の音でした。

トップに戻る


古幡靖 1963年生まれ

 ほかの出品者に比べて古幡が道内で活動を始めたのはかなり新しい。ダミアン・ハ−ストらを輩出して注目されている英国のゴールドスミス・カレッジに留学後、1997年9月、札幌で開かれた現代美術のアワード「サッポロアートアニュアル」でグランプリを獲得したのが最初だと思う。古幡靖 FLOATING TOUCH
 (右の写真は、受賞作品「FLOATING TOUCH」のリメイク版。芸術の森の中にある有島武郎旧邸で展示中。シャーレ状の皿の水面に自分の指紋を浮かべたもので、「アイデンティティ」がテーマになっている)
 その後の活躍はめざましい。受賞後にビデオアートを発表。98年末には、坂東史樹らと4人で、インスタレーション「CORPSE LAND」を共同制作。生と死を正面から見据えたすぐれたものだった。99年春には、札幌とカリフォルニアで制作している画家レスリー・タナヒルの個展に、言語の権力性などをテーマにしたビデオアートを出品した。さらに98年から毎年、さっぽろ雪まつりの会場で、大雪像にビデオアートを投影するという試みも行っている。



 先日、彼は「札幌に来てしばらく、コンセプチュアルアートだと思われて困った」と漏らしていた。彼の作品にはコンセプトが明確にある。札幌に限ったことではないと思うけど、コンセプトを自分の言葉ではっきり語らない作家は少なくないから、そういう人に比べるとコンセプチュアルに受け取られるのだろう。
 しかし、彼は「ビジュアルとコンセプトのバランスは常に考えているし、コンセプトがなるべく多くの人に伝わらなくてはダメだと思う」と話す。ごもっともです。では、今回のビデオアート「山たらしめんこと、川たらしめんこと」はどうだろうか。

 ビデオは6分間。画面は左右真っ二つに分かれている。
 右は支笏湖の映像。撮影位置は全く変わらない、ほぼ静止した映像。穏やかな湖面が陽光を反射し、ある種の神々しささえ漂わせている。
 左は列車の窓から撮った映像(タネを明かすと寝台特急「北斗星」の車窓から撮影している)。夜の情景が多いが、時々映像が途切れたり、ストップモーションになったりするエフェクトが駆使され、見る者をハッとさせる。
 ヘッドホンからは声明が流れるが、終了直前に途切れる。画面の左は急に、(北海道としては)凡庸な冬山に変わる。エフェクトのない、何が映っているかが明瞭に分かる映像になったとたん、画面は唐突に終わる。

 美術館の解説パネルには、崇高とか、事実と真実とか書いてある。崇高とは、カントやエドモンド・バークらが論じ、戦後はバーネット・ニューマン(米国の抽象表現主義の画家)がそれをテーマにした論文を発表して現代美術の一大キーワードになったのだが、ここではむしろ、作者が、札幌芸術の森の情報誌「Lure」のインタビューで「主題は北海道です」と答えていることにかんがみ、北海道をめぐって考えてみたい。
 ここでちょっと寄り道して……。
 芸術の森の中に、白樺派の作家、有島武郎の旧邸がある。これは、まさに北海道という主題をもった作品にふさわしいステージといえる。
 というのは、有島というのはまさに、北大に絵画同好会「黒百合会」を結成して北海道に初めて近代的な美術をもたらした人物であり、同時に北海道文学といわれるものの創始者であるからだ。
 文学についていえば、明治・大正の日本文学が北海道なしではとうてい成り立たないという事実、そして当時の北海道がいわば欧州にとっての米国のような植民地であったことが指摘されているが、それは別として、北海道に居を構えて、まさに風土に根ざした文学を初めて生み出したのが有島であるとされている。開拓者精神、冬の厳しさ、荘厳な大自然といったものを背景に、真面目に人生の意義を追究するのが「北海道文学」の特徴であり、その先駆者的存在として「牛肉と馬鈴薯」の国木田独歩、系譜に連なる者が伊藤整や小林多喜二、本庄陸男、島木健三らであるとされる。
 もちろん「北海道文学」というカテゴリーが無意味かつむしろ有害だという笠井嗣夫の言はもっともであるが、ともあれそういう「歴史=物語」が道内で定説化していたことは否定できない。
 さて、古幡が有島邸に展示しているのは、モニター数台によるビデオインスタレーション「有島エロス」である。
 なんだかすごい題名だが、流されているビデオの中身は、有島の代表的評論「愛は惜しみなく奪う」を一章ずつ異なる人物が朗読しているというだけのいたってシンプルなものだ。このテキストは、堅苦しいまでにまじめに自分と人生を考えた有島の代表作。だが古幡は、そのまじめさと、人妻との心中という熱情的な最期を遂げている矛盾、相克に興味を抱いたようだ
 矛盾、相克といえば、有島は、精神と肉欲の相克のみならず、米国留学体験を通じて西洋文明と日本人であることの相克に悩んでいたのであり、さらに言えば、北海道=植民地という土地自体が、最もドラスチックに西洋と日本が衝突する場であったのだ。
 こういう作家が住んでいた家(しかもコロニアル形式を取り入れた和洋折衷の家!)で作品を発表するということ自体、古幡が「北海道」の歴史の中にある自分ということに対し、きわめて自覚的であることを示している。植民地である北海道。オリエンタリズムが転倒された形であらわれている北海道。そういう北海道を視野に入れて美術をやっている美術家はほかにほとんどいないといって良い。むしろ、本州人が勝手に抱くロマン主義的な見方(その構図は、西洋人が東洋に対して向けるオリエンタリズム的な視線にどこか似ている)を無自覚になぞっている美術家が多い。
 で、この文脈を踏まえて美術館のビデオに戻ると、ここで映し出されている支笏湖は、観光絵はがきのような視線ではなく、植民地になる前のまっさらな、理念としての北海道であるといえようし、左側の揺れる風景は、植民を経て、しかしいまなお神秘性をどこかに宿している現在の、現実の北海道だといえるのではないだろうか。

北海道ゆかりの主な近代文学者
石川啄木(函館や釧路を放浪)
幸田露伴(20代のとき余市で電信技師をしていた)
国木田独歩(北海道への入植を検討し下見にも訪れた)
島崎藤村(「破戒」の出版資金を親類に借りにきた)
宮沢賢治(生徒の修学旅行引率などでしばしば来道)
岩野泡鳴(「放浪」など五部作の舞台に)
夏目漱石(本籍が岩内にあった)

 ただ、あるいは残念に思う人がいるかもしれないと思ったのは、せっかくの美術館の展示で、一般的なギャラリーよりもかなり広いスペースが与えられながら、ビデオ上映だけというのはちょっと寂しいというか、もったいない気がしないでもないということ。美術館だからといって特別なことをしないというのも作者らしいといえるのではあるが。

以下、★は、芸術の森滞在に関係する企画
☆は、同時期に、札幌の別の場所で発表されたもの

☆さっぽろ雪まつり大通会場7丁目の大雪像「トレド広場」にビデオを投影したプロジェクト…こちらを参照
★2月10日から16日、美術館講堂で発表された「Mama Loved Me」…こちらを参照
☆2月12日から24日、フリースペースプラハで開催のグループ展「7Rooms」…こちらを参照
★2月17日から25日、芸術の森・野外美術館で実施「WINTER TAIL」…こちらを参照

ワークショップ「ビデオアートをつくろう」

14日、講堂と美術館付近

古幡靖さんの屋外でのワークショップ 参加者は12、3人。時間の関係上、各人に「撮りたいもの」を紙に書いてもらい、そのうち6人にカメラを1分だけ回してもらった。
なぜか全員が屋外での撮影。雪をこいで「ボザール橋」を渡った人、雪原の上を走る友人を撮った人、カメラのオンとオフを間違えてオフの間だけカメラが回りかえって撮影現場の雰囲気のある映像が写せた人など、さまざまでした。もっとも、短時間でビデオを作るというのは難しそうです。

トップページに戻る

トップに戻る

 ★「南へ/HOPE

 この作品は、3月23日から25日までの3日間、古幡一家が「北の創造者たち展」会期中に住んでいた芸術の森内アトリエで公開された。
 7分ほどのビデオ作品で、アトリエのカーテンをスクリーンに用い、その手前には、作家の奥様が上映中身じろぎもせずに立つという仕掛けになっている。彼女は、「有島エロス」の第1章を朗読したときと同じ、白いワンピースを着ていた。
 映像は、芸術の森野外美術館の中、樹林、つるはしによる雪割りなどをつなげ、前半は「タリス・スコラーズ」ふうの無伴奏の合唱、後半は打楽器のみの音楽が伴奏として流れている。
 「3カ月間滞在して見聞きした結果の集大成」と作者本人が言う。だからあえて、滞在した場所で公開したとのことだ。

 いつも古幡の作品は、それ自体は人を驚かす技術の高さを持っているとか、見たことのない表現がなされているというものではなく、ごくシンプルだと思う。でも、鑑賞する人を考え込ませるきっかけになるのである。どうしてか、わからないけど。
 今回もべつに変わったものが映っていたわけではないし、夫人が何かしたわけでもない。それでも、見る人は、彼の3カ月間を追体験したことになっている。さらに言うなら、私たちが日ごろ当たり前だと思っている、芸術の森という空間の存在や、そこで鳴いているシジュウカラなどが、ひどく新鮮に感じられてくるのだ。

 昨年暮れ、古幡は、自宅を引き払って一家三人でアトリエに越してきた。そして会期中、ものすごいペースで作品を発表し続けた。
 「北の創造者たち展」が終わり、彼は埼玉の実家に一時戻るという。その後は海外に行くかもしれないということを話していた。
 作品タイトルにはそのことが込められているのだと思う。
 しかし、映像の最後は、芸術の森から見た北の空であった(駒岡の清掃工場の煙突が写っていたから間違いないと思う)。筆者はその訳をあえて聞かなかった。作者は、どこに行っても、北の地で見た冬の空を忘れないと思うからだ。


新明史子

11973年生まれ
 現代美術で、自分の日常や、生きてきた年月などをテーマにした作品はよくあるが、単に自分の使った道具を並べただけだったり、失敗している場合がかなり多い。要は「見せ方」の問題なのだと思う。新明の作品を見るとビジュアルというか「見せ方」のたいせつさがよく分かる。
 出品作3点のうち、一番サイズが大きい「草暦 kusa-goyomi」。素材は、言ってしまえば、1年間365日、1日1枚ずつ写した日常の写真である。それを並べるだけならたぶんだれにでもできるだろう。彼女は、写真の中心的モチーフだけをコピーして、その紙を蛇腹形式につないだ。家族や近所の人々、植物や手紙といった身の回りのささやかな物だけを、背景は割愛してコピーしている。そのため、そこに並んだものたちはきわめて作者に近しいものでありながら、同時に普遍的なものに感じられるのである。つまり、彼女自身の個人的な記憶でありながら、まるで自分の過去を懐かしく振り返っているかのようなのだ。(「記憶」をテーマにした美術と言えば、クリスチャン・ボルタンスキーとかコスースが思い浮かぶが、彼らの使用した写真や物も、きわめて個人的なものでありながら鑑賞者に共通の記憶を呼び起こしてくれる点では、共通している。もちろん作風そのものは新明とは異なるが)
 「家 home」は、家族4人が、住んできた家の見取り図を思い出して1年1枚ずつそれぞれ書いたもの。いかにも道内の転勤族らしい発想の作品だと思う。さすがに毎年引っ越しているわけではないから、家具などが足されただけの年もある一方、本人(新明)だけが一人暮らしのため別の住まいの見取り図を書いている年もある。各自の記憶違いもそのままになっているし、4人の記憶の仕方の違いも図に反映されているのがおもしろい(たとえば、新明はどの住まいでも必ずCDプレイヤーのおき場所を書いているが、同じ家に住んでいても妹はあまり書いていない。音楽への関心度の差が現れている)し、初期のころは石炭置き場があったりして、私たちの暮らしぶりの変遷の速さにあらためて驚かずにはおれない。

 筆者は新明の作品を見たのは、1996年の「サッポロアートアニュアル」の時だけ。奨励賞をとったそのときの作品は、膨大な新聞紙に、「草暦」と同じように写真をコピーしたもので、いまでも印象に残っている。その後は個展を1回開いたのみで、公募展にも作品を出していない彼女を今回の展覧会にエントリーしたのは、館側の英断だと思う。 

アーティスト・トーク「家族」 2月18日(日)美術館講堂

 7人の出品者全員による日曜日のワークショップ。4人目にして初めて、ごくオーソドックスな、作家本人による自作解説でした。スライドも使い、過去の作品も含めて説明がありました。ちょっと変わったところは、会場に茣蓙が敷いてあって、お茶とお菓子のサービスがあったところでしょうか。
 彼女の話によると、家族を題材に取り上げるのも、一種のセルフポートレートとしてとらえているようです。私ってなんだろう。その問いを突き詰めていくと、彼女の場合、いつも一緒に暮らしてきた家族に行き当たったという側面があるようです。「日本人である自分、女である自分を考えることと、家族を考えることは、同じこと」とも話していました。
 最初につくった本は、21歳の時の「あにささぐ」。「あ」とは、古語の「吾」。自分の誕生日から始まって、1年毎の写真と、新聞の縮刷版からコピーした天気図。台紙には、新聞の全面広告のページなどを切り張りしたものを使い、それに、写真などを手差しコピーするという手法は、このころから現在まであまり変わっていません。今回の出品作は、台紙に新聞紙は使っていませんが。
 大学の卒業制作としてつくった「草の肖像」は、自分から始まり、父、その姉、その知り合い……というふうに「人間関係の輪」を100人つなげて、その100人の写真のコピーをとじた大型本。なんだか、お昼のテレビの「笑っていいとも」の「テレホンショッキング」みたいですが、プライベートな関係性というものを考えた作品になっています。続く「草生す」は、上で触れた、アートアニュアルの受賞作です。
 筑波大大学院の2年間を経て札幌に戻ってきたあと、家族相互の年毎の贈答物をコピーした「父から母へ」「妹から私へ」など12冊を制作。また、家族4人の零歳の写真、1歳の時の写真……というふうに並べた作品も説明されました。

 以下、ごくごく個人的な感想を述べさせてもらいますと、やれ勉強しろやれ早く家へ帰って来いと、何かとうるさい親からいかにして離れるかばかり考えていた高校時代をすごしていた筆者には、家族があんなに仲がいいのが信じられない! 
 表現というのは、自我と周囲の齟齬から出てくる部分が大きいと思うのです。とくに家族とか家というのは、近代の日本人の表現者にとっては、桎梏であり、いかに超克するかの対象であったのです。島崎藤村の「家」の冒頭を読めば、彼にとって家がどれほど重たくのしかかる存在であったかが、わかります。だから、家族というのは、たとえば吉本ばななや村上春樹の多くの作品ではあらかじめ捨象されたりするわけです。
 だから、家族の存在をこれほど肯定的に、いわば所与として設定するような、周囲との軋轢とか齟齬とかのなさそうな人が、表現活動をやり続けているというのは、正直なところ驚きであります。「幸福な人は詩を書くな」とは黒田三郎の言葉です。書いてはいけない、表現するべきではない―とまでは、筆者は思いませんが。
 ひとつには、この”閉じた”仲のよさの原因は、核家族という、家族の中でも歴史的に特殊な一形態に由来している部分が大きいのではないでしょうか。わが国では、戦後の高度成長に伴って膨大な人口が農村部から都市に流入するとともに、祖父母から切り離された格好で新しく所帯を持つ夫婦が激増して核家族という形態が一般的になったわけですが、それまではむしろ例外的な形態であり、「サザエさん」のようにいろんな人が同居しているのが普通だったのです。作者の12冊からなる「父から母へ」などの連作は、核家族として閉じた関係性が前提になければ成立しえません。長い年月を扱っているわりには、歴史的なものへのまなざしは、彼女のなかに希薄であるといえます。そこまで求めるのはないものねだりではあるでしょうが。
 新明の作品は、生まれた日の新聞からコピーするのがニュースではなく天気図であるように、社会的なものから身を遠ざけ、ひたすら身近なものにこだわっています。そのこと自体を批判しようとは思いません(美術家すべてがハンス・ハーケのようにならなければいけないというのではあまりに窮屈だ)。しかし、天気図ですら、第2次世界大戦中は新聞に掲載されなかったように、家族も、社会や歴史と無縁の世界であり続けることはできません。もっと広いパースペクティブをうまい具合に作品の中に取り入れる契機が見出せたとき、新明の作品世界はより大きな広がりを持つのではないかと筆者には思われました。

トップに戻る


端 聡

1960年生まれ
 正直に告白すると、端の作品は、何を言いたいのかよく分からないことが多かった。こんなことをかくと、自分のアタマが悪いことを告白しているみたいでいやだが。これは、あるいは、文化部在籍中に、彼にじっくり取材する機会がありそうでなかったことに起因するのかもしれない。
 しかし、矛盾するようだが、にもかかわらず、端の作品を見るのは心地よい体験だった。美しいのである。それは、たとえばモネやプッサンが美しいのとは違うし、ロダンやムーアが美しいのとも違う。うまく形容できないが、現代美術としてキマッているとしか言いようがないのである。現代美術的に美しいのは、たとえばウォーホルとかボイスなんかもそうなんだろう。スタイリッシュ。で、かといって工業デザイン的ともいえない。現代美術、としかいいようのない美なのだ。
 1996年、道立美術館4館を巡回して開かれた「北海道・今日の美術」に出品された「楽観的でありながらいつも目ざめている」にせよ、あるいは近年の「さっぽろ美術展」に出品している、モナリザの白黒写真やスピーカーを使った一連のインスタレーションにせよ、言いたいことが何なのか正確にはわからないのに、言いたいことがはっきりあるという強度は、見る側にぐぐっと伝わってくるのである。
 今回のインスタレーション「今から過去は変わり、未来は今によって」は、本人が「言いたいことをはっきり言うことにした」と照れ笑いしながら話すように、メッセージ性が、筆者のような頭の鈍い人にもよく伝わる作品になっている。概略を書くと、スペースの中央には、鉄製の映写機とテーブルが三つ、正三角形をなすように置かれている。テーブルの上にはそれぞれ二つのくぼみがあり、ミルクが満たされ、それがスクリーンの代わりとなってに真上から映像がうつる仕組みだ。映像は、計6人がなにか話している顔と、1ないし2文字ずつの字幕である。字幕の変わっていく速度ははやく、読んでほしいのか読まれたくないのか、端の照れがあるような気がする。
 会場の周囲には写真約50枚が張られている。いずれもモノクロで、多いのは、彼がドイツ滞在中にテレビから撮ったもの。ちょうど第2次大戦が終わって半世紀で、ナチスの犯した罪を正視する番組をたくさん放送していたというのだ。
 端自身がアウシュビッツに行くのではなく、テレビの映像から引用するというあたりも、ちょっとひねっているというか、現代美術っぽいというべきか。あるいは、ミルクのくぼみがスピーカーになっていて、そこから人間の呼吸音が流れるという仕組みも。ミルクのかすかなにおい。端は、見る者に、五感をフルに使って鑑賞することを求めているようだ。
 ミルクは、人が生まれてから最初に口にするものというのが端の説明だ。すなわち、作品の中心に、希望のアレゴリーが位置している。周囲には、過去を見据えることで、私たちの過去も変わっていく(歴史を改ざんするという意味においてではなく、真摯な姿勢が私たちを取り巻く視線を変えるのである)のだという、力強いメッセージが息づいている。そして、子供たちの写真も並ぶ。
 そうやって見てくると、ちょうど20世紀から21世紀へとまたいで開催されたこの展覧会にふさわしく、端は、新しい世紀への希望と意思をこの作品にこめたとはいえまいか。全共闘の後に生まれ、ストレートな意見表明が苦手だった世代にも、ようやくまっすぐにものが言える心の準備が出来たといえるのかもしれない。
なお、筆者の怠慢で、この論考だけ、発表がはなはだしく遅れたことをここに深くおわびします。

ファッションショー
イマキュレートコンセプト
3月11日(日)展覧会場(古幡氏のスペースにて)

 さて、どうしよう…。困った。
 ふだん「動かない美術」ばかり見ているので、こういうのに接すると、正直なところどう記述し、評価していいのか分からない。

 ファッションショーと称してはいたけれども、実際は、CG(コンピュータグラフィクス)の圧倒的な印象が強かった。めまぐるしく動く模様の合間合間に、コンピュータ処理された人間の映像や、以前のファッションショーの映像が挿入された。大きなスクリーンはふたつに分かれ、ちょうど左右対称になった映像を流していた。冒頭と、後半に「私たちの企てるものは戦争である」というマニフェスト的な文章のテロップが日英両方で流れる。
 ダンスミュージックというには通俗性に欠ける音楽にクラシックなどが混じり、ミュージックコンクレートのようだった。
 始まってしばらくして、白い服に身を包んだ2人の女性と男性5人のモデルが一人ずつ登場する。服は端聡自らがデザイン。さまざまな素材で作られており、形も微妙に異なるが、どれも純白を基調にしている。緩やかなデザインは、彼の愛用するコム・デ・ギャルソンの黒と白を逆にしたみたいな感じがしないでもない。
 2回目の登場の時に、あらかじめ正面に用意されていた長いテーブルにすわり、実につまらなそうに牛乳と白米の食事を、ゆっくりと摂る。7人が横一線に並ぶ姿は、レオナルドの「最後の晩餐」を思い出させる(あるいは松田優作主演の「家族ゲーム」?)。その間も、背後の映像は次々と変わっていく。
 途中、普通の服を着た男が出てきて「アタックbP」をアカペラで朗々と歌う場面と、金色の帽子をかぶった男が奇声を上げながらプロレスで倒れる真似を繰り返す場面があったが、これはよく分からなかった。ブレヒト言うところの「異化効果」ってやつでしょうか。

 端さんはおわった後「どうもありがとうございました」と言っただけで、あっけにとられた筆者たちや多くの観客(100人以上いたと思う)に何も説明らしきことをしないまま立ち去って後片付けに取りかかってしまった。
 本人をつかまえて話を聞けばよかったのかもしれないが……。
 
 もちろん、ここで導入されている要素のいちいちについて、それが何を指しているか推理していくことは不可能ではない。ミルクと白米は日常の暗喩であるかもしれないし、あるいは西洋的なものと東洋的なものをごちゃ混ぜにして受容しなくてはならない私たちのあり方を表しているのかもしれない。食事の風景がスクリーンの前に置かれているのは、芸術表現と日常とが相補的な関係にあることの比ゆかもしれないし、モデルが着ていた白い衣は、使用前のキャンバスのようにこれから何かをかけるもの、あるいは希望のアレゴリーかもしれない。
 しかし、そうやって当てはめていくことにはどこかむなしさに似たものを感じる。筆者の好きな詩句に
  ウイスキーを水で割るように
  言葉を意味で割ることはできない
というのがある(田村隆一「四千の昼と夜」)
 美術もついに言葉で割ることはできないはずである。言葉できっちり割ることができたら美術にする必然性は無い。
 この日のパフォーマンスとCGも、意味の以前に、非常な強度をもって私たちの前に出現したということで、すでに十分なような気がするのだ。
 なんだか批評を放棄したことの言い訳をしているような気がしてきたな。  


藤本和彦

1965年生まれ

「自由の解釈とその選択」の一部
 まず、インスタレーションの概観から。
 格子状の立方体が三つ。それぞれ一辺103センチ。向かって左から白、灰色、黒。格子の木材はビニールで丁寧に覆われている。
 立方体の内部には、入れ子状に、もうひとつ立体が入っている。黒には白、白には黒、灰色には同じ色の直方体だ。
 それぞれの立方体に対応して、壁から床に、やはりビニールで包まれたシートが垂れ下がっている。やはり、黒には白、白には黒、灰色には灰色が対応している。
 この作品を見た第一印象は「スタティック(静的)だなあ」 というところだった。この大きな空間に、斜めの線が一つもないためだと思う。そこらへんは、昨年の札幌・大同ギャラリーでの個展や、近年の道展での作品と共通するのだけれど。
 この作品のコンセプトについては、図録のテキストから引用した方がわかりやすいだろう。

 では、その構造の核に当たる小直方体は何であろうか。世界の中心に据えるべきものとして考えるのは、やはり自己であろう。ここに挙げられた3つの自己は人間の持つ多面性−黒の自己、白の自己、そのどちらにも該当しない中間色の自己を示している。自己はひとつではないということを前提にして、それぞれの自己を何らかの規制あるいは保護ともいえる立方体の中に閉じこめている。それは「社会」とも言い換えることができるであろう。ところがその立方体は格子状であることから、自己の周囲を取り巻く空気は停滞することなく思いのほか疎通し、自由は規制や保護の下でもやはりある程度の自由を有している。だからこそ、それらの内に安住してもかまわないし、またすり抜けて外に飛び出してもよいのである。自在であることが自由なのである。
 ところで、ここでいうところの自己は、一般概念としての自己、つまり鑑賞者や不特定の人のことではない。選択肢を用意した藤本自身である。一面では語り得ない自己の全部を端的に他者に見せる手段として、あらゆる事物に通底する3要素、つまり、対立する関係にあるニ項(例えば「好き」「嫌い」)と何れでもない一項(「好きでも嫌いでもない」)を挙げたのだ。そして、それぞれの要素の間で自由を選択する自己を鑑賞者に提示し、併せて自由の再認識を鑑賞者に提起している。

 どうでしょう。決してやわらかい文章ではないけれど、読んでみると、わりとわかりやすい解説になっているのではないだろうか。
 これを書いた学芸員は、作家にある程度の時間をかけて聞き取りを行っているのだから、作家の意図はかなりのところまで、この文章に反映されているとみることができよう。
 ということで、この抽象的な作品が何をいわんとしているか、わかった。よかった、よかった。おしまい。
 …ということには、もちろんならないのであって(少なくともこのホームページではこれでおしまいにはなりません)、「作品の意味は作者の責任外」(アメリア・アレナス)なのだ。これでおしまいなら、作品はほとんど、概念の解説にしかすぎなくなる。朝日新聞の大西若人記者の便利な言葉を使えば、「解釈オチ」である。この作品は何がいいたいのか。これこれこうです。ああそうか、で終わっちゃうってこと。
 「自由」とは何かを考える姿勢は大事だろうが、考えるのはつねに言葉であって、視覚表現で概念的なことを考える人はいない。自由について考えを表明したければ、論文などでやればいいのであって、わざわざ木をビニールで梱包する必要はないはずなのだ。 
 筆者は、藤本作品を「解釈オチ」だと切って捨てるつもりはない。藤本作品は、自由とは何かという「解答」を提示しているというよりはむしろ、問題を提起しているからだ。
 現実の社会と離れた地点で自由を抽象的に考察する行為にはあまり意味がない。筆者は、自分が自由かどうか、自由とは何かどうかを考察するのは全く無意味であり、意味があるのは、現実の日本社会(あるいは自分の所属する社会)が自由が否かを考え、もし不自由なところがあればその解消に向けて実際に行動することだけだと思う(かっこよすぎ)。とはいえ、問題提起であれば、見る人がそれぞれの具体的な状況の中の自由について考えることもできるからだ。もともと現代美術とは見る人に「そういえばあの問題はどうしたらいいんだろう」と気づかせ、考えさせるものだということもできる。ようするに、美術とは、「答え」より「問い」だ。
 けれど、この作品は、ビジュアル面からコンセプト面にたどり着くのがかなり難しい。言い換えれば、見ただけでは、解説文のようなことまではなかなか分からんということである(もちろん、鑑賞者すべてが同じように解釈しなくてはならないということでは必ずしもない)。「解釈オチ」に陥りやすい危険性、つまり見る者が解説を読んで納得してそこで終わり、というふうになる恐れを秘めているのは、確かだと思う。

 したがって、見る者は、そこで納得するのではなくて、さらに作品に即してでも作品から離れてでもいいから、自分なりの思考を進めていくというのが、作者にとっても見る者にとっても一番喜ばしい事態とはいえまいか。それこそが「美術スル見方」ということになるだろう(オチがついた)。

ワークショップ「フジモトタイム」

1月21日、美術館講堂
 館に入ると学芸員の吉崎さんが「まず会場に行ってください」と言う。ところが、会場の受付の女性は「会場は講堂です」。???
 講堂に戻ると、藤本さんが、警備員の制服を着て立っている。しかも、きょうのために、ひげまで剃って…。うーむ、見事な変装だ! あとで聞いたら、吉崎さんは、会場にいた警備員に気が付いてほしかったみたい。藤本さんはその格好で1時間以上も会場をうろついて、自分の作品を見ている人を観察していたのでした。
 きょうは、藤本は不在で、自分は藤本の親友という設定であり、会場のみなさんは、藤本と知己であるか否かに関係なく、幼なじみや家族など別の人格になりきってあたかも藤本をよく知っているかのようにしゃべってほしい−という、妙なワークショップ。もっとも、それだけでは心もとないので、会場の壁には藤本さんの幼いころの写真が3枚貼られ、テーブルには宝物という水木しげるのマンガ、阿部公房の本、キャベジン、練りけしゴム。ホワイトボードには
 好きな色 緑、黄、茶
 趣味 草刈り、リサイクル
 小学生のころなりたかったもの 仙人
 今興味のある事 人の「自由」について
というヒントが書かれた。
 どうなるんかいな、と思っていたが、30人近い参加者の皆さん、意外なほどの演技派ぞろい。
 私は藤本クンが小学校のころの給食のおばさんで、藤本クンは味噌汁が好きで必ず3杯のんでいた―とか
 私は娘の百葉(ももは)です。父は幼いころから百葉箱を妖怪ポストと信じており、娘にもその名前を付けたのでうらんでいます―とか
 入院してたとき隣のベッドで寝ていたのが藤本さんだったんですが、お見舞いに来る女性が3人いたんです―とか
 私はもう他界してます祖母なんですが、集団生活になじめない子でしたね、さっき仏壇のほうをじっと見てたなんて人がいましたが、あれは私を見てたんです―とか
 でたらめ? を言っているわりにはみなさん堂に入っていて、藤本さんも
「彼は今でもそうみたいですよ」
なんて他人のフリしながら、顔には
「図星だ、どうして自分のことが分かったんだろう」
って書いてあることもあったみたいです。
 当初は、藤本さん本人が登場しないというウワサもありましたが、ふたを開けてみるとなかなかユニークなワークショップでした。
 

表紙のページに戻る

トップに戻る