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国語施策の立役者の一人として著名な保科孝一は、自らの半生を回想した随筆(『ある国語学者の回想』朝日新聞社)の中でさまざまな学者の人物評を行っているが、こんなことまで話してよいのかというほど砕けた逸話も多数紹介している。この随筆が書かれたのは一九五二(昭和二七)年のことだが、その頃、いねば学界の長老的存在として君臨していた保科は、向かうところ敵なしという状態だったのかもしれない。
たとえば、佐佐木弘綱(国文学者佐佐木信綱の父)は大学の講義中に「ここはもっとも重要な秘事で、もし諸君がわたしの宅に来られたら、五十銭いただかないとお教えしないところだが、いまこれをただでお聞きになることができるのは、大学生のありかたいところだ」と得々と話したという。また、大学の都市伝説ともいうべき採点法、すなわち、答案を遠くへ放り投げて、自分に近いところを六○点として、遠くへ飛んでいった順にだんだん加点していくというやり方は、重野安繹{やすつぐ}が行っていたらしいと保科は紹介している。もっとも保科自身も、これはうわさであって真偽のほどは保証しがたいと述べているが(ただし、この採点法自体が都市「伝説」なのかどうか、これまた真偽のほどは保証しがたい)。
このような、ある意味で罪のない逸話は読んでいる分には楽しいが、書かれた側にとってはたまったものではない場合もある。その典型例が芳賀矢一に関するもので、酔っ払った末、交番を便所と間違えて用を足した話などが楽しそうに述べられている。芳賀にとってはそれこそ穴があったら入りたいところであろう。保科はこうした話が好きだったのか、文部省専門学務局長であった上田万年{かずとし}の主導した、国定教科書の仮名遣改定(いわゆる棒引き仮名遣い)が世論の反対を受けた結果、文部省自身の手によって元に戻されたという事態は、上田にとって「面目丸つぶれ」であったと、わざわざ上田への追悼文の中で述べている(「故上田先生を語る」『国語と国文学』一四巻一二号、一九三七年)。他にも、谷本富{とめり}(教育学者)や和田垣謙三(経済学者・ちなみに彼は万歳三唱の考案者とも言われる)といった知識人の、いささか子供じみた逸話がふんだんに紹介されており、さながら筒井康隆『文学部唯野教授』を読んでいるようである。
さて、明治近代化を担ったのが、こうした逸話に事欠かない人びとだったとすれば、そこで作り出されていったさまざまなものについても、ちょっと違った見方をすることもできるだろう。例えば、近代国民国家形成にとって大きな意味をもつ「国語」についても、上田や保科といった学者や教育者の関与が大きく取り上げられる割には、人物そのものに目を向けることはあまりなかったのではなかろうか。その証拠に、明治期の国語学者に関する伝記は、専門的なものを除けば、国語辞書『言海』の編者である大槻文彦を扱った、高田宏『言葉の海へ』が目につく程度である。なお、学究肌の大槻については、保科が楽しそうに述べているような逸話があまりない分、かえって上田、芳賀、保科らのスノビッシュさへの興味が駆り立てられるかもしれない。
国語施策の立案機関として一九〇二(明治三五)年に設置された国語調査委員会は、主査委員の大槻が中心となって多くの調査研究を行っていた。ただ、東条操の追想にもあるように、委員会では極めて学術的な態度を貫いたあまり、当時から「学者の道楽だ」と批判されていたらしい(「国語調査委員会にいた頃」『言語生活』九、一九五四年)。現実との妥協が要求される国語施策において学術的な態度を貫くならば、どうしても矛盾が生じてくることになる。「子供を抱けばそれだけ言海の編輯が遅れる」(筧五百里「大槻博士伝補遺」『国語と国文学』五巻七号、一九二八年)といって、孫すら抱いたことのない大槻のいた委員会のことである。結果として、十分な国諸施策案を打ち出すことができないまま、行政改革のあおりをうけて委員会は廃止されてしまう。残ったのは、学術的には貴重であるものの決して一般的なものとはいえない、大部の調査報告書群(『口語法調査報告書』や『音韻調査報告書』、『疑問仮名遣』など)であった。
そもそも「国語」の構築には、国語施策、国語学、国語教育の三側面が複雑に関係しているが、国語施策に限って見ていけば、政府側にとってはそれこそ挫折の連続ともいうべき歴史であった。具体的には、仮名遣改定の復旧措置や、国語調査委員会の廃止、漢字制限の不徹底というように、日本には「国語」構築といえるほどの完璧な施策が存在したのか、と疑ってみることもできるのである。現在でも、本来ならば国語施策に関する資料収集という任務を担うはずの国立国語研究所が、これまた行政改革の美名のもとに大きな変貌を強いられつつある。とはいえ、世間的には「正しい日本語の普及を」などという国語施策に関する要求が一定数存在することから、事態は複雑な様相を帯びてくるだろう。これからはデータもろくに検証せず、ひたすら観念的に国語施策の是非が語られるようになるかもしれない(実際、その傾向はすでに一部で見られる)。それもこれも、元はといえば、思っていた以上に「国語」の構築がなされなかったことに尽きている。いわば、「国語」は作り損ねられたのである。そして、そこには「国語」を作り損ねた学者達が存在していた。
ただ、このことは学者達の怠慢によって生じたものではない。多くの場合は、むしろ愚直なまでに「国語」に向き合い、その構築に執念をかけていたという方が適切だろう(上田や保科の場合は、その執念が時として喜劇的に映ることも事実だが)。それでも、十分な構築ができなかったのは、単純に時間がなかったからだとしかいいようがない。文部省編纂の国語辞書『語彙』について見てみると、明治新政府の一大事業として計画されながら、一八七一(明治四)年に「阿之部」、一八八一(明治一四)年に「伊之部」「宇之部」、一八八四(明治一七)年に「衣之部」が刊行されたところで頓挫してしまった。十三年もかかって「え」の部までしか進まなかったというのも、それほどまでの難事業であったともいえるが、辞書の編纂を推し進める研究(特に文法研究)が追いついていなかったことが原因である。こうした中で学者達は、「国語」を性急に作り上げようとしていた。
この度刊行される拙著『唱歌と国語 明治近代化の装置』(講談社選書メチエ)は、こうした性急な動きの中で、どのようにして「国語」の構築が図られたのかについて取り上げたものである。性急さを取り繕う必要性からも「文法」や「唱歌」といった近代化の装置ともいうべきものが重視され、これらの装置を編み出した人びとが「国語」の構築に携わっていた。これまでは、構築対象としての「国語」への着目が多かったが、今後は、そうした「国語」を作ろうとした人びと、正確には作り損ねた人びとへの関心が高まっていくことで、また新たな視点が開けてくることだろう。言葉に憑かれた学者達が演じる悲喜劇の舞台は、現在も上演中であるだけに、その淵源をたずねてみるのも面白いことに違いない。
— 山東功「国語を作り損ねた人びと」(『本』2008年3月号、pp.23-25)