TUP BULLETIN

速報906号 チェルノブイリ・ベイビーから「福島の子どもたち」へ

投稿日 2011年4月25日

 見えない恐怖を可視化する




英国時間の2011311日朝、日本の東北太平洋岸を襲った大地震の第一報をBBCのモーニングショーで知った。学校に出かける息子に「今日は携帯電話をオンにしておきなさい」と言いつける一方で、東京の家族に電話をかけ続けたがいっこうにつながらず、すっかり地震のニュースだけになったテレビ画面では津波が村や町を飲み込んでいく様がNHK経由で実況されていた。


 福島第一原発が津波にやられて炉心冷却装置が働いていないらしいとのメールを受け取ったのは、地震発生後3時間ほどしたころだ。電話がつながらないので家族にメールを書き始めていたが、その情報を得て以降、文面は単に安否を気遣うものから、可能なら西へ逃げてというものに変わった。電話が通じるようになってからは呼びかけの範囲を友人にも広げ、根拠もなく煽るなと時々叱られたりもしたが、なんでもなければ笑い話になるから、できるなら逃げてと答えた。


 チェルノブイリ並みの大爆発を危惧してのことだったが、幸いなことにそこまで大きな爆発はなかった。しかし、ふたつの水素爆発から6週間が過ぎたいま、環境に放出された放射能の量で言えば、事態は確実にチェルノブイリの方向に近づいている。にもかかわらず、その危機感が日本の多くの人に共有されていないのはなぜだろう。わけても政府の中枢に。


 放射能は目に見えないから危険さの実感には想像力が必要だ。一般的に「おんな子ども」は恐がりなので、見えないものの恐怖については「おとこ」より敏感なんじゃないかと思う。そして、おそらく放射能は、そのような態度で怖がるべき対象だ。なぜなら、その恐怖が見えるものになったときでは何をするにも遅過ぎるし、その見えない放射能によって数年後につけを払わされるのは、しばしば「おんな」と「子ども」だからだ。


 しかし、困ったことに世の中を動かしているのは、多くの場合、その鈍感な「おとこ」たちなので、見えない恐怖に説得されない「おとこ」のために、チェルノブイリから飛びだした放射能に支払いを要求された「おんな」と「子ども」を可視化してみようと思う。登場するのはふたりの若い男女とその親だ。かれらはチェルノブイリの公式の被害者には記録されていない。


 前書き・本文:藤澤みどり (TUP) 





 

 [TUPエッセイ]

チェルノブイリ・ベイビーから「福島の子どもたち」へ

 

200311月のはじめごろのことだ。ブッシュ大統領のロンドン訪問にあわせた大規模反戦デモを翌日に控えて、ロンドンの議会前広場で抗議行動をしている最中に、顔見知りの反戦活動家がひとりの青年を紹介してくれた。

「反核活動家のイアンだ」

イアンと呼ばれた背の高い青年は人なつこい笑顔で握手を求めながら、「日本人だって?」と話しかけてきた。ジャーナリストの森住卓さんが撮影したイラクの子どもたちの写真展示を通して、イラク戦争と劣化ウラン兵器に反対する活動を行っているとわたしが自己紹介すると、イアンは、劣化ウラン弾によって発生した放射性物質でイラクの人々、とりわけ子どもたちがひどく苦しめられていることを知っていると言った。

そして、日本の人はヒロシマの経験があるから放射能の悪影響に敏感だねと続け、「放射能がどんなにひどいことをするか、ぼくもよく知ってるよ」と言いながら、かぶっていたキャップをとった。

イアンの頭は、火傷を負ったばかりように広い範囲にあちこち赤剥けていて、実際には乾いていたのかもしれないが、濡れたようにてらてらしていた。そして、そのただれた赤い皮膚のあいだに、金色か薄い茶色の髪の束が少しずつ、ここが頭であることの申しわけのように生え残っていた。赤剥けた皮膚は頭から首筋のほうへ、その下へとずっと続いているようだった。

「どうしたの?」と尋ねると、「チェルノブイリの灰をかぶったんだ」と答え、外したときと同じぐらい素早く帽子をかぶってしまった。

チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発した翌日、まだその爆発が隠蔽されていた427日日曜日の昼間、イアンは自宅の近所の海岸にいた。「ビーチで遊んでいたんだ」。ひとりではなく、友達か家族といっしょで、他にも大勢の人がいたらしい。「なにしろいい天気だったそうだから、その日は」

放射性物質の付着したホコリや灰が北西の風にのって千キロ以上離れたイギリスの東海岸まで到達し、雨粒とともに地上に降り注いだ結果、放牧されていた羊が放射能に汚染された牧草を食べて被ばくし、食用に適さなくなったといった話は聞いていた。しかし、チェルノブイリの灰で被ばくした人に遭うのはイアンが初めてだった。放射性物質を直にかぶっただけでなく、海で泳いでもいたので口から体内にも取り入れた可能性があり、その影響か、ひどく体が弱いという。

スウェーデンの原子力発電所にある放射線管理区域外の敷地で、そこにあるはずのない放射性物質が検出されて放射能漏れが疑われたのは、イアンが海岸で遊んでいた翌日だ。世界をかけめぐった最初の報道では、放射能漏れをおこしたのは放射性物質の見つかった当の原子力発電所だとされていたが、やがて、どうやら出所はソ連圏だということになり、同じ日の夜(欧州時間)になって、ソ連の通信社がチェルノブイリ原子力発電所(現ウクライナ共和国)での2日前の大爆発を報じた。

その大爆発を知っていたら、どんなに天気が良くても子どもを海岸になどやらなかったろうに、外でなど遊ばせなかったろうにと、イアンの母親は悔やんでも悔やみきれず、きっと何度も泣いたろう。

* * *

福島第一原子力発電所のふたつの原子炉建屋で水素爆発が発生してからまもなくの317日に、ロイターのウェブサイトに「チェルノブイリ・ベイビー」の証言が掲載された。「フォールアウト・ゾーン(放射性物資が降った土地)での暮らし、人生」について、その地で生まれ育ったロイターの新米特派員が自ら語る記事だった。

ナスターシャ・アストラシェウスカヤという名のその特派員はイアンよりさらに若い世代に属していて、イアンが長男とすれば、少し年の離れた妹あたりの年齢だ。ナスターシャはチェルノブイリで爆発が起きたときは、まだ生まれていなかった。それどころか胎児でさえなく、まだ母親の体の中の卵子のひとつに過ぎなかった。

ナスターシャは語る。

チェルノブイリが爆発したとき、私はまだ生まれてもいませんでした。にもかかわらず、私の子ども時代は命にかかわる負の遺産につきまとわれていました。

同じ学校の女の子の一人は片手の指が6本ありました。 私の甲状腺はいつも肥大していますし、私も家族もずっとガンを恐れていくことになるでしょう。

津波に襲われた福島原子炉の暗い影の中で生活し、この先の影響を心配されている日本の方々が、そんな運命にならないようにと願っています。

私は1989831日、チェルノブイリから500キロ離れたベラルーシのモギリョフで生まれました。モギリョフは、19864月に起きたウクライナのチェルノブイリ原発の火事の後、ベラルーシに向かって飛ばされた放射性の雲の中心にありました。

私はその時、起きたことを直接経験していませんが、両親がその話をするのを何度も聞きました。

そのスモッグが何日も漂っていたとき、何が起きていたか、両親は知りませんでした。公の説明は何もありませんでした。テレビでもラジオでも、役人の口からも一言もありませんでした。

本当のことを知っていた人たちは、自分の子どもに家の中にいるように指示しました。でも一般人のあいだにパニックを起こしたくなかったんです。一般人は自分の吸っている空気がどんなものかすら気づかずに、汚染された通りを歩いていました。

チェルノブイリの爆発が隠しおおせるものではないとソ連政府が悟るまでに数日かかりました。大量の放射性物質が放出されたと外の世界では知っていたのに。

危険に気づくと、両親はすぐ決断しなくてはなりませんでした。母と兄はモスクワへ行くことにしました。モギリョフより放射能の影響が少なかったのです。父はモギリョフに残って仕事を続けることにしました。息をするのも危険でしたが、家族にはお金が要りました。

「あなたのお兄ちゃんはそのとき五歳だった」と母は話してくれました。「連れ出さなくてはならなかったの」

荷物の支度をしてモスクワに向かい、母方の伯父の家に滞在しました。「五カ月いたの」と母は言いました。「でもすぐには何も変わらないとわかって、お父さんのところに戻ったの」。移住するのは無理だったんです。

私はその3年後に生まれました。

出生率は急激に下がり始めていました。事故のあとに生まれた赤ちゃんにいろいろな異常があって、みんな子どもを持とうとしなくなったんです。私と一緒に学校に行っていた女の子は腕に異常がありました。

こわかったけれど、慣れました。

事故のあと、ベラルーシで暮らしていたほとんどの人がそうでしたが、私の甲状腺はふつうよりずっと肥大していました。いつも甲状腺ガンになるのを恐れて暮らしていました。

ベラルーシはチェルノブイリから出た放射性降下物でもっとも汚染された国で、汚染が完全に取り除かれた地域はまだほとんどありません。

水のせいで歯が悪くなりました。放射能レベルが他より低い場所があって、きのこやベリーを摘むことができました。広大な森の地域が鉄条網で立ち入り禁止にされていて、 「放射能危険」という黄色の標識があちこちにあったのを覚えています。

私の世代の、特にウクライナとの国境に近い地域に住む人は、「チェルノブイリの子どもたち」として知られるようになりました。気の毒に思った外国の人たちが団体を創設して、汚染地域の子どもの健康状態が改善するように手助けしてくれました。毎夏何週間か、歯の治療を受けたり、健康にいい食べ物を食べたり、新鮮な空気で肺をきれいにしたりできるよう、ベラルーシから欧米に連れて行ってもらいました。

今日、爆発から25年経って生まれる子どもも、やはり脅かされています。その子どもも孫もです。放射能はそんなにすぐには消えないからです。子どものころに放射能にさらされたので、その影響はずっと体に残るし、子どもがどこで生まれても、たぶんその子にも伝わるとわかっています。

でも今できることは何もありません。立ち入り禁止の森や野原に入らないようにするだけです。[翻訳協力:荒井雅子(TUP]

http://www.huffingtonpost.com/2011/03/17/chernobyl-japan-nuclear-crisis_n_837213.html

* * *

もう一度、イアンの話をしよう。

イアンは反核活動家として、核兵器に反対する行動だけでなく、核再処理施設や原子力発電所での抗議行動にも参加してきたそうだ。イアンがそうであるように、世界の反核活動家はしばしば原子力発電(核発電)にも反対の立場にたつ。チェルノブイリ原子力発電所の爆発以降、その傾向は顕著で、「NO NUKES」と言えば、それは核兵器と核発電の両方に反対する意見表明にもなる。

イアンは言う。

施設の前で抗議行動をしていると警備員が出てくるだろう。そうすると帽子を取って頭を見せてやるんだ。これが放射能のやったことだって。

イアンには核に反対するだれにも負けない動機がある。

かれの話を聞いて考えた。

日本人はしばしば「日本は唯一の被ばく国だ」と言う。実際には、核実験場をはじめ世界の至るところに被ばく地はあるが、とりあえずその点はおいておくとする。「唯一の被ばく国である日本は核兵器の使用にも所持にも反対である」と言うが、そこで問題にされる「世界で唯一の日本の被ばく」とは、どうやら「爆発」を伴う兵器による直接的な被ばく、わけても「体外被曝」にほぼ限られるようにみえる。

原爆の破壊力は確かに凄まじい。中規模の二つの地方都市が一瞬にして死体と瓦礫の山に変わった。爆発を生き延びたうちの少なくない人々が、爆発によって放出された放射線によって急性放射線障害を負い、数日から数ヵ月を苦しみ抜いて亡くなった。これらの被害は原爆の空間的な破壊力と定義することができるだろう。

核兵器の必要性を説く人たちが問題にするのも、核兵器のこの空間的破壊力だ。一瞬で大量の破壊をもたらすことによって敵に脅威を与え、それ以上の戦争の継続を断念させる効果がある、と。そして、この恐怖感を互いに煽ることで、冷戦は不思議に均衡していた。

しかし、原爆の恐ろしさの本質は、実は空間的なものより時間的な破壊力にある。

原爆投下の翌日、数日後、1週間後、けが人の救助や家族を捜して広島や長崎の市内に入った人々(入市被ばく者)が、急性放射線障害と同じ症状でばたばたと亡くなった。これはいまでは内部被ばくが原因とされている。

また、原爆を生き延びた人や残留放射能によって被ばくした人々は、数年後、数十年後に、複合的なガンに冒されることがしばしばある。ガンにならないまでも、疲れやすくて集中力が続かないなどの重度の倦怠感が原因で仕事に就けなかったり、一見怠けているようにしか見えないことから「ブラブラ病」などと揶揄され、苦しい生涯を送った人も多いと聞く。

仮に被ばくした本人は比較的健康に人生を全うすることができたとしても、次の世代、また次の世代に身体的な異状が現れることもある。そして、この情報が歪められて広がった結果、心ない差別に苦しめられてさえいる。そればかりか、ガンを患った子どもや孫が、自分より先に死ぬ不幸にもしばしば立ち会う。

こうした原爆の時間的な破壊力に注目すると、爆発を伴うかどうかよりも、放射能の拡散こそが問題だと気づく。

放射性物質がいったん環境に放出されてしまえば、その物質が放射能を出し切って別の無害な物資に変わるまで、時には何万年も何十万年も放射線を出し続ける。そして、そのあいだずっと危険は去らない。放射能は閉じ込めておくべきものという視点に立てば、放射能を閉じ込める器が核兵器の形をしているかどうかは、二次的な意味しかもたなくなる。

核兵器と原子炉が同じものでないように、核兵器の使用と原子力発電所の事故は同じものではないとの主張は、大量の放射能の環境への放出という点からみれば、あまり有効ではない。

「日本は唯一の被ばく国である」という前提が、「核爆発による被ばく者」とそれ以外の被ばく者のあいだにヒエラルキーを作っているのではないか。放射線の被害者であるという点において、爆心地の被ばく者と入市被ばく者のあいだに差がないように、原発の事故によって被ばくを余儀なくされている人々とのあいだにも差はないはずだ。

「日本は唯一の被ばく国である」というこの決まり文句がフクシマ以降も有効かどうか、わたしたちは夏までに答えを出さなければならない。

数十年前に爆発してしまった核爆弾の被害をいまから防ぐことはできないが、いま日本の核施設から拡散される放射性物質によって被ばくする被害者の数を、出来る限り低く抑えることは可能だ。

広島や長崎の上空で爆発した爆弾が、いま、福島第一原発の3つの原子炉と炉心冷却プールで、ゆっくり時間をかけて爆発していると置き換えてみよう。一瞬の爆発に逃げ場はないが、ゆっくりした爆発からは逃げ出すことができる。数十年後にはできないことが、いまならできる。

福島の子どもたちに対して文部科学省が出した「児童の放射線許容量を年間20ミリシーベルトとする安全基準」を、いますぐ変更前の基準に戻すべきだ。そして、そのような高レベルの基準にしなければ外遊びもままならないような地域の子どもたちは、学校まるごと疎開させたらいい。

少子化によって教室の余っている学校が全国にあるはずだから、それらの教室に担任ごと子どもたちを疎開させたらどうだろう。空き教室が3つあるなら福島の3学級が、ひとつしかないなら1学級が、同じ市町村のいくつかの学校に分散してクラスごと疎開すれば、子どもたちもそれほど寂しさを感じなくてすむのではないか。

いまの緊急事態が収束し、放射性物質の除去が行われるまでの12年の措置であるし、子どもたちは同じ学校に通う子どものある家にホームステイさせてもらったらどうだろう。何か支援したいけれどどうしたらいいかわからない、子どもの世話ならできるしやってみたい、力になりたいと申し出る人は多いと思う。

教室の整備や子どもの移動にかかる費用は税金をあててもらっていいのではないか。また、ホームステイ先にも食費などの補填があるともっといいと思う。

子どもたちが安全なところで暮らしているとわかっていれば、被災地に残る親たちも安心して生活の建て直しに集中できるだろう。被災した子どもたちが教室にいれば、わたしたちも福島の被害を身近に感じ続けていられるはずだ。

福島第一原発の事故がチェルノブイリと同じレベル7に引き上げられた日、BBC24のニューススタジオでキャスターがふたりの専門家に話を聞いていた。

ひとりの専門家が「これは日本が隠し事をやめるという意思表示でしょう。共産圏じゃないんですから、もっと情報をオープンにして解決策を広く求めるようになるのでは」といった楽観的な展望を述べると、もう一方の専門家は別の立場から意見を述べた。「レベル7になったということで、避難地域が拡大されるはずですが、全体主義の国じゃないので避難圏の住民を強制移住させるわけにもいかず、いっそう混乱するかもしれません」と。

政府が子どもの疎開を決断すれば、福島の人たちは不満を述べながらもほっとするのではないだろうか。たいへんなのはわかっているが、いま限られた時間を心配するほうが、将来にわたって心配し続けるよりずっといいはずだ。

政府の決断など待たずに、市町村ごと、地区ごと、学校ごと、子どもを受け入れると名乗りをあげてもいいと思う。あなたの周りの人と話してみて欲しい。

決断を遅らせるべきではない。危険の度合いは放射能に曝される時間が長くなるほど高くなる。

「フクシマの子どもたち」と呼ばれる世代を作り出してはならないと、「チェルノブイリの子どもたち」が身をもって教えてくれている。