最高裁が上告を棄却し、堀江氏の有罪(実刑)が確定した。堀江氏は近く収監されるという。心の底から残念である。

 氏とは、数年前、とある番組で出会い、その後数回食事をした。都知事選前も食事をさせて頂いた。

 氏が持つ見識・感性・才能には、ある種の輝きがある。それは、よく「あいつ天才じゃない?」とか言われる、他者が中々持ち得ない輝きである。

 「ある種の人間」や「ある種の権力・政治」はその種の輝きに嫉妬するのだと思う。その種の眩しさに腹が立つのであろう。整合性や合理性といったものでは最早無いのだ。


 恐らく「ある種の人間」や「ある種の権力・政治」は、その種の輝きを持っていないからである。

 「眩しさ」というのは「ある種の人間」や「ある種の権力・政治」にとって、時々腹立たしいものであるらしい。彼らは、それを「世を乱す者・・・・・」「反秩序・・・・」「反体制者・・・・」「分子・・・・・」などと、才能の無いものがよく用いる言い回しをする。

 

 あくまで、私は「輝き」という視点から見ている。

 

 「ある種の人間」や「ある種の権力・政治」の嫉妬ほど醜いもの、そして始末に負えないものはない。それらは、大抵、「正義」や「統率」や「倫理」という美名の元に発生する嫉妬だからである。

 それらは、いつのまにやら、知らず知らずのうちに、恣意的に、故意的に、そして結果的に、この国や社会に無くてはならない、そしてこの国や社会を変えていく一種独特の光を消しているのである。


 そしていつか、「その種の人間」や「ある種の権力・政治」は国家や社会の誘導に失敗するのである。

 私は、堀江氏の言動を全面的に肯定するものではないし、法治国家を全面的に否定するものでもない。

 実際、多くの訴訟で被害者も出ている。現行の法制度上、その事実は事実である。

 最高裁判決は重いものである。被告人は真摯にかつ誠意をもってその刑に服し罪を償うべきであろう。


 有罪無罪の是非を問うているのではない。何度も言うが、私は人が持つ「輝き」という観点に立っている。

 氏には・・・・・・ノーベル平和賞を受賞しながら投獄されている中国の運動家・・・・・・幕末に、自らが持つ先見的思想信条によって粛清された勤王の志士・・・・・・太平洋戦争時代、融和や平和を叫びながら散って行った戦士・・・・・・・その種の空気を感じる。

 彼ら彼女らの光を消したものは、いつでも「ある種の人間」や「ある種の権力・政治」だったような気がする。また、その醜い「嫉妬」だったような気がする。

 そういうものが国や社会を結局は負にしていった。いや、そういう犠牲の上に立ち、国家や社会は発展して来たとも言えるかも知れない。

 そうやって、国や社会はある種の輝きを失っていくのだ。この先、この国、大丈夫か?