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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-06-01

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・また付け焼き刃での「論語」の話になるんだけど、
 孔子の弟子の子貢が、同じく弟子の顔回のことを
 「彼は、一を聞いて十を知る男ですから、
 わたしなんかじゃ、とても比べものにならないですよ。
 わたしは、せいぜい一を聞いて二を知る程度ですから」
 と言う場面があるんですね。
 そうすると孔子が言うんです。
 「そうだね、わたしもおまえと同じくらいだから、
 とても顔回には及ばないよな」と慰めるんです。
 ま、とにかく顔回というお弟子はすごいらしいんですが、
 「一を聞いて十を知る」ってことわざが、
 なんとなく気になって考えていたんです。
 孔子みたいなすごい人が、じぶんのことを
 「一を聞いて二を知る」くらいだと言う。
 特に、そこんとこがおもしろいなぁと思ったのです。

 で、そこから、コミュニケーションのことを考えていた。
 例はなんでもいいや、「トマトを切ってください」と頼む。
 そのとき、頼まれた人は「トマトを切る」をするわけです。
 しかし、「トマトを切る」前に、手を洗うでしょう。
 おそらく、そのトマトは人の口に入るのだから。
 そして、相手の「つもり」に合わせた大きさに切る。
 さらに、皿に盛って。なんならフォークとかを添える。
 「トマトを切る」だけだったら「一」のままなんですけど、
 それには当然、手を洗うだとか、盛り付けるとか、
 フォークを添える、なんなら食後のお手拭きも用意する、
 なんてことが、できる人には想像できているんですよね。
 このいくつもの段階のうちの二つか三つができるのが、
 弟子の子貢なんでしょうね。
 「それくらいでも、まぁいいんだけどね」と
 孔子は言っていたのではないでしょうか
 ‥‥と、そこらへんまで考えていたとき、
 ふと、じぶんのことを思ったんですよ。
 外国に行ったり、なれない文化の集まりに入ったとき、
 すっごく「居づらい感じ」があるじゃないですか。
 あれは、「一聞いても一しかわからない」せいですね! 
 「ああしよう、こうしよう、そして」ということが
 まったくできなくなっちゃう不自由さがつらいんです。
 逆にふだんの慣れ親しんだ暮らしのなかでは、けっこう、
 ぼくら、「一を聞いて三とか四とか知っている」んですね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
一を聞いて一だけ知ってればいい世界は、ロボットの社会か。


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