2010年12月8日水曜日

今こそ研究支援の仕組みを抜本的に考え直すときではないかな。

 政策コンテストの結果が発表され、その結果に対してあれこれと賑やかである。研究関係の話題としては学振PDがどのように処遇されるかについて盛り上がっている。しかし、これに限らず全体的に、当初文科省が希望していたほどの予算が確保できる見込みはなさそうで、大学その他研究機関にとって来年度はいっそうに厳しい財政状況となるだろう。ただし、この事態に悲観してはならない。既存の制度を変えようとするには、これ以上ない機会とも言える。わたしは大学事務職員として、どうあるべきかについて考えてみたい。

 現在、日本にはさまざまな事業の元でさまざまな研究が行われ、少なからぬ成果を挙げていることだろう。しかし、大きな予算を費やして研究者を雇用し、大規模な研究を行えば成果が出るというのはある意味当然のことである。問われなければならないのは成果の有無ではなく、それぞれ掲げた目的を果たすためにその事業の仕組み、従事する研究者やその組織が十分に機能しているのか、改善すべき点はないのかということであろう。
 なぜならば、予算的な制約から無尽蔵に事業を広げることはできないためである。科学技術関係予算の総枠を広げることができない以上、その枠の中で多くの成果を残すための努力が行われなければならない。その場合、どこにどれだけの予算を配分するべきかといった通常の審査の問題と同時に、当然に助成を行う制度がどのようにあるべきかという点も問われなければならない。そもそもの構想が不適切であれば、どのような審査を行ったところで、どのような優秀な研究者・組織があったところでその能力を十分に発揮することはできないためである。

 にもかかわらず、事業全体に対する見直しはこれまでほとんど行われてこなかったといって過言ではない。現在の競争的資金の乱立がその確たる証拠である(参考:平成22年度競争的資金制度一覧)。国全体としてどのように日本の研究を活性していくのかという構想があり、それを実施しようとするのならば、常に既存の制度とその構想を照らし合わせ、必要な事業は拡充する一方で相対的に不要となった事業は整理・統合を行うというようなことが自主的に行われて然るべきである。けれども、そのようなことが行われた例をわたしは聞いたことがない。むしろ、外部からの批判を受けてもなお聞く耳を持たず、予算削減されてようやく重い腰を上げるといった体たらくである。
 それぞれの事業にはそれぞれの思惑があるに違いない。そして、それがまったくの的外れというわけでもないだろう。ただし、第一に考えられなければならないのは、それが成果を挙げるために十分なものとして現場に受け入れられているかということだ。政策立案者の思惑はひとまず置いておいて、それを実際に行う研究者、関連の事務手続きを行う事務職員にとって、その事業が使いにくいものであった場合、どれだけの金額を費やしたところで成果が生まれることは期待できない。成果を生むにしても、多くの無駄が生じてしまう。具体的な例として挙げられるのは、数多くの競争的資金ごとに異なる執行ルールである。事業ごとにルールは異なり、合算して使うこともできず、それぞれに報告書を提出する必要がある。このような状態であるから、競争的資金を獲得すればするほどに研究を行う時間がなくなるという事態を招いている

 このような状態で、さらに予算をよこせというのは正直おこがましいというのがわたしとしての率直な感想である。むしろ、減らそうとする側の論理の方がもっともらしく聞こえてしまうほどである。以下は財務省 主税局 税制第三課長/前財務省主計局主計官 (文部科学担当)(当時)の藤城 眞さんの発言。

日本の財政状況が非常に厳しいことは言うまでもありません。今、教育に限らず、さまざまな分野で、予算を増やしてほしいという声があるわけです。教育に関して時々感じるのですが、よい施策であればお金がついてくるのが当然だといった感じで話される方もいます。しかし、予算制約のなかで、いくらよい施策であっても、申し訳ないが今はできないというものもあります。そもそも提案自体が適切かどうか、その吟味から始めなければならないものもいろいろとあります。こうしたなかで、一体、どういう予算を認め、どういう予算を減らして、他の予算にその資源を回すのかという議論も必要なのです。

RIETI - 第7回「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」

 「罪を犯したことがない者から 石を投げよ」というわけではないが、予算の拡充は現在抱えている事業の乱立や執行ルールの複雑化といったような無駄を多少は改善させた後に言うのが筋というものだろう。これは必要な予算を減らすことができるだけでなく、複雑な事務手続きを軽減させるという点で研究者が研究を行う時間を増やすことができる点にも注意すべきである。

 そもそもの話、事業仕分けなどにおいて批判されているのは「研究支援のための仕組み」であって「研究それ自体」であることを忘れてはならない。研究それ自体が日本の将来にとって必要であるということについて、どの程度かという点にばらつきはあるにしても一定の理解は得られている。しかし、研究が大事であることと、今現在行われている研究支援のための各種制度が大事であることは必ずしもイコールではない。いかにその助成の対象が大事なものであろうとも、それを支援する仕組みが不適切であれば国民の理解を得ることはできないし、今後の発展を見込むことはできない。


 であれば、適切な研究支援の仕組みとは何だろうということに当然なるのだが、この答えはまだ自分の中でもはっきりしていない。その仕組みを生み出していくための手段としておぼろげながら現在考えているのは、研究機関や研究者が助成事業を評価するという取り組みである。たとえば、事業構想の妥当性、研究費の使いやすさ等々で評価を行い、その結果が芳しくないものについては予算化を見送ることとする。絶対に配分機関側はやりたがらないだろうなー(笑)とは思いつつも、配分機関と研究機関との間の相互の緊張関係なしに良い事業は生まれないし、良い成果も生まれない。研究機関側が駄目なものは駄目と公然と文句が言えるようになれば良いのだが、最近の学長・総長レベルの声明を聞いても事業批判、文科省批判までに及ばないところを見ると、多少の遠慮が見られるように思う。ということであれば、何らかの形で研究機関側が事業について意見することのできる仕組みを作ることは意味のあることだろう。
 また、アメリカにおけるFDPのような組織を作ることはできないかと考えている。FDPとは「Federal Demonstration Partnership」の略で、「配分機関と大学が協力して、競争的資金制度の改善策を研究し、議論し、実験・実証する場」(「米国の競争的資金の柔軟な会計制度とそれを実現してきた米国の仕組み」より引用)である。この組織の活動の中で、さまざまな事務手続きが合理化され、競争的資金における高い効率性と透明性が実現されたとされている。これまた配分機関が嫌がりそうな話であるが、こうした枠組みを設けることによって恒常的に事業制度の改善と全体の効率化を望むことができる。

 その他、さまざまな方法が考えられるのであろうが、いずれにせよこれまでの仕組みを十分に検証し、現状の問題点とその改善策を探ることが不可欠で、その上で今後どのような体制としていくべきか、そしてどのようにそれを構築していくかを考える時期に来ていることは間違いない。関係者の一人として、これからも何かのお役に立てるよう頭をひねろうと思う次第である。

 なお、この一環で次期e-Radについて妄想してます。 →「kenq.info blog: 次期e-Radがどうあるべきかを妄想してみる。」)

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