地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

いい加減、「研究者個人の自由な発想に基づく研究」って言い方止めないか…

いい加減、「研究者個人の自由な発想に基づく研究」なんて言い方止めないか…?と最近思う。
基礎研究の説明で耳にする機会の多いこの表現。(トップダウン型に対して)ボトムアップ型のプロジェクトを示す言い方として多用されている。けれど、これって一般の誤解を招く表現ではないかなぁと思うのだ。知らない人が聞いたら、まるで好き勝手してるみたいじゃないですか。
 
より現実に即すなら、「当該分野に精通した専門家が、現在当該分野でプライオリティが高いと考え、またそれを行うことで十分な成果が得られると判断した研究」とでも言った方がいいんじゃないか…?
"自由な発想"ってのは、今何が必要か現場の担当者(専門家)が考えることができる自由であって、しかもほとんどの計画は審査の結果、却下される。現場のアイデアを、周辺分野で仕事している人たちが審査して、プライオリティが高いかどうかを判断し、限られた資源を割り振るのだ。そもそも研究ってのは、予算申請するときから論文にするときまで、学術的な必要性、妥当性、有効性、そういった(アカデミア内部向けの)説明責任を果たすことにかなりの労力を割いてるわけで…。むしろ情報の溢れる現代、その部分が研究の本質と化してるんじゃないかなぁ。
  
変な例えかもしれないけど、"会社員が、上層部にプロジェクトを具申して、それが認められて何年間かそのプロジェクトに携わる…"くらいのレベルの話ではないのかなぁ。
たとえば仮に壱岐くんという商社マンが(自分の信念から)石油開発をしよう!と思い立ち、各方面に根回しして新事業を立ち上げたとする。けれど、それを「壱岐くんの自由な発想に基づく事業」とは言わないのではないだろうか…。石油開発じゃなくて、広告とかIRとか企業イメージの改善とか、そういう成果の判定しにくい仕事だと、基礎研究という営みにより近いかもしれない。そういったプロジェクトは、民間企業であれば、組織の内部向けの説明・説得に成功すれば、株主には十分に説明されることなく遂行されていく。ただし後者のような、(ステークホルダー向けの)説明の省略は、民間企業では許されるけれど、税金を使っている部門では許されなくなってきていることには留意したほうがいいかも。
あるいは、下水道の修理係。みんなそれぞれ担当の区域があって、現場のことはその人しかわからない。その人がここは修理が必要ですよ、と資材を求めてくる。けど、暗い穴の中で何をしているのか、外から見たらよくわからない。遊んでいるんじゃないか、と思ってクビにしてみたが、別に何も起こらない。じゃあいいやと、そのまま年月が過ぎて…下水道が崩壊して道路陥没…、修理したいけど、担当者は行方不明。ルートももうわからないし、面倒だからもう丸ごと外国の水メジャーに任せようか…。そんなお話。
 
昔なら、"自由な発想"とか"好奇心"といった言葉を使った説明がウケたんだろう。けれども、今ではそんなことなかなか言えない時代になりつつあるのを感じる。時代に合った呼び方というものがあるんじゃないかなぁ。もちろん、職業や専門、テーマの選択にはそういった嗜好の要素が大きく関わっているだろう。でも、それ以外の要素だって大きいことは、どんな分野であっても、何かに取り組んでいる人なら理解できるはず…。
…とはいえ、本来なら労働者が「自分はこの仕事が好きだからやっている」と自信を持って言える社会が理想なのだとは思う。与えられた裁量権を、自由にやらせてもらってると素直に喜んでも叩かれない社会。研究機関が産業団を傘下に収め、自前でやりくりできるようになったら、その中ではそんな環境をつくれるのかな、といつものパターンを思ってみたり。 
…ごちゃごちゃ書いてしまったけど、そんなことを、最近の政策コンテストの結果とか、このへん(以下)のブログを見て思ったのだった。
学振PD騒動雑感:なぜポスドクの人件費は「生活保護」扱いされるのか(大「脳」洋航海記)
語りつくしたことをまだ語る(要は暇つぶし、現実逃避)(「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ(笑)」社長のブログ)
ポスドク、博士の就職問題がボンボンの甘えにしか見えない理由(発声練習)