誰がどのように『国家』を読むのか 納富「近代日本におけるプラトン『ポリテイア』の受容(上)」

 誰かが(あるいは何らかの集団が)ある書物を読むとき、そこに記されている内容を自らの利害関心に照らし合わせて選択的に受容するということが常に行われます。読書という営みに伴うこの過程は、時として選択的受容という言葉で表現できる事態を超えて、オリジナルの誤読ないしは歪曲といった現象を招くことになります。しかし逆に言えば、このような歪みにこそ読書する人間の側の関心のあり方が鮮明に現れると言えます。

 数あるギリシア哲学の古典のなかで、自らの関心を投影することを読者に誘う本は何か。その筆頭に来るのはプラトンの『国家』でしょう。ギリシア語で「ポリテイア」、つまり「国(都市国家)のあり方」と題されたこの本では、哲人政治、身分制、財産の共有、教育といった論点が、イデア論、霊魂論とともに議論されています。まさに選択的読みを誘発する構造です。

 納富信留「近代日本におけるプラトン『ポリテイア』の受容(上)」『思想』No. 1042(2011年2月)、64–93頁は古典作品としての『国家』が持つこのような性格に着目し、その近代日本における受容過程を論じる作品です。やられた、と思いました。日本でのギリシア哲学での受容を論じるならまさにここだという着眼点です。

 現在刊行されている前半部分は、西周が1870年代末に社会主義思想の起源として『共和政(レビユブリツク)』に言及したところから筆を起こし、大正デモクラシー期までを論じています。

 そこからはおもに三つの観点から『国家』が読まれていたことが分かります。第一にそれは理想国家の構想としてトマス・モアやフランシス・ベーコンの著作に並ぶものとして理解されていました。この解釈のもと『理想国』という表題がつけられました。中国語訳が『理想国』という表題を用いているのは日本のそれを参考にしたからではないかと納富さんは推測しています。

 第二に『国家』は社会主義共産主義の思想的起源として理解されていました。片山潜は次のように書いています。

社会主義てう思想は決して新しい思想にあらず、プレトーも其「共和国」(レパブリック)に於いて此思想を説けり、而して彼のモアーの幸福国(ユートピア)は其最も著明なるものなり。

ここから分かるように『国家』を社会主義と関連づけることは、それをユートピア思想と結びつけることと重なる営みでした。

 第三に『国家』の哲人政治論は、混迷する政党政治への批判的視座を提供する思想として大正デモクラシー期に読まれることになります。「人材内閣」と呼ばれた内閣の出現を背景に、「日本の政治は、人材政治、哲人政治であらねばならぬことを主張する」と言われました。

 以上のような政治的社会的情勢と不可分な論点に加え、本作品は「プラトン文具(株)」「プラトンインキ」「プラトンシャープ鉛筆」の逸話の紹介も含んでおり、純粋に西洋古典ファンとして好事家的関心をくすぐります(ただ後者とて大正教養主義の一側面として位置付けられており、決して面白いからという理由だけで取りあげられているのではありません)。

 しかし本作品のハイライトは後半部にこそあると考えるべきでしょう。そこでは「『ポリテイア』が、昭和前期にどのように日本の国家主義に用いられ、その事実がなぜ戦後に忘却されたのか」が論じられることになるそうです。納富さんが指摘するようにポリテイアという言葉の原義に最も適合しているのは「国体」という訳語です。この表題を持つ書物が日本の国体論の枠組みのなかでどう読まれたのか。続きが楽しみです。