夢と見栄。

 私が修士のときに所属していた研究室には企業との共同研究を遂行している学生が常に複数人いた。それらの企業の開発者たちが言った言葉が未だに印象に残っている。

 私はそのときその企業には関わっていなかったが、なぜか会議に同席していた。当時助手だった先生(今の助教相当)が開発者たちに、現在の進み具合と今後の方針を語り終えると、企業の人は少々不満げにこう言った。

「うちでできる細かいことはうちでやりますから、大学にはもっと夢を見てほしいんです」

 助手の先生が説明した内容は、企業の人が言うほど重箱の隅をつついている感じではなく、大学の標準的なレベルだったと思うのだが、企業の人は「夢」を要求した。それはつまり、大学の標準的な研究が全て「細かいこと」であることを意味する。私にはそういったものの見方が新鮮だった。

 その数年後、博士号を取得し、いろいろと単純な事情があって私は無職となった。無職の私はふらっと日本音響学会の大会を訪れた。大会の一つ一つの発表を見ているうちに、私は一つのことを確信した。ほとんどの発表はもしも学生や教員ではなく単なる無職の人が講演していたら、何の反応もなく無視されるだろうということだ(何件かは無視されない)。それは極端な喩え方をするなら、小学校の学芸会を大人がやっても誰も喜ばないということに似ている。ほとんどの学会の発表はアカデミックな肩書きがあるから許されているのである。なるほど、企業の開発者からしてみれば、「細かいこと」として映るはずである。

 そういったことを思いながら昨年末に、細かくない研究ができるのは修士の学生くらいだろうということを書いた(「何かが欠けている音声認識研究」についての話)。細かくない研究というのはギャンブルであり、失敗すると何も得られないが、何も成果を出さなくていい人材は社会の中では修士くらいしかいないだろう、という趣旨である。その後、その日記を見たとある教員が私に話しかけてきた。

修士も今は成果に見える何かを出さざるを得ない。なぜなら『何もできませんでした』だと指導教員が馬鹿にされるからだ。要するに、教員の見栄だ」

 冒頭で企業の人が言っていた「細かいこと」を作り出していたのは、どうやら教員の見栄だったようである。修士の学生を「細かいこと」に割り当てているのは教員の見栄なのだ。見栄は人間関係の問題なので、とても解決しづらい。もうしばらくは、その企業の人が欲しがっていた夢は語られそうにない。

 見栄に関する問題は私の苦手とするところなので、ほかの人の議論を読んでみたいものである。