日本学術会議、「大卒後3年間は新卒扱い」を提言(4)

引き続き、日本学術会議の「回答 大学教育の分野別質保証の在り方について」の第三部「大学と職業との接続の在り方について」、大学教育の職業的意義の議論に続いて、いよいよ「4.大学と職業との新しい接続の在り方に向けて」に入ります。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf

 従来の「大学と職業との接続」の下においては、大学の専門教育の職業的意義に関して、とりわけ文科系の分野を中心に、それに対して多くを期待しないことを前提とする雇用体系が現実には構築されてきた。こうした現状への適応を目的とするだけの議論では、むしろ現在の問題状況を追認し、その固定化を図ることにもつながりかねない。各分野の教育の職業的意義について検討する際は、現状への適応を十分考慮しつつも、中長期的な視点から、今後構築すべき新しい産業社会の姿を構想し、そこで大学教育が果すべき役割について考えるという視点が重要となる。
…今後目指すべき産業社会の在り方を考える際に、その中軸となるのが、経済のグローバル化に適切に対応しつつ、多くの人々が幸せに生きることのできる社会をどのように構想するのかという課題である。そこには一定の価値判断が介在せざるを得ないが、重要なのは、産業社会の構造を意識的に多元的なものにし、多様な局面で人々が自らの力を発揮し高めていくことのできる余地を増やすことにより、社会全体として良い方向に向かうことができるようにすることであると考える。
…現実的な対策は、多くの場合、過去から現在に至る延長線の上を大きく逸れない範囲に存在する。日本的雇用システムの一つの柱は長期雇用であるが、これを可能にしたのが企業内部での柔軟な人材の再配置であり、またそうした柔軟な再配置を支えたのが、企業内部での充実した教育訓練機会の提供だった。各種の業務には消長があり、柔軟な人材の再配置を行うことができなければ、縮小部門の人員は解雇するしかない。実際に欧米諸国の雇用制度においては、基本的にこのような考え方がその根底にあるとされる。
 しかし現在、「正社員」の非正規雇用労働者による代替と、企業内教育訓練の縮小とが進行する中で、上記のようなシステムは機能しにくくなってきている。人材の流動性を確保し、しかも同時に業務の質を維持するためには、専門性を要する業務については完全に外部化するか、あるいは専門性を有する人材を一定の流動性の下に雇用するしかないであろう。こうした雇用は、具体的な"job description"を伴う雇用契約を通して、欧米ではむしろ標準的な雇用形態となっているが、今後ますます重要性が増すと思われる、一定の専門性を要する業務を担う人々を、雇用をめぐる法制度においてどのように位置付けるのか。従来の派遣労働者の一類型に含めるのか、あるいは現在の正社員のように法的に強固な解雇規制を伴う雇用形態とは別の、新しい類型の「正社員」として位置付けて行くのか検討が必要である。また、この問題を考えるに当たっては、雇用の流動性が高まる中で、労働者個人が、自らが専門とする分野を転換することも必要となることを念頭に、職業訓練の機会を組み込んだ失業扶助制度を導入することも必要となるだろう。(pp.48-49)

将来を多様化の方向で考えることには賛同しますし、経営幹部や管理職になるといったキャリアではなく、特定分野の専門職としてのキャリアを歩む人が必要であること、その重要性が高まるであろうことにも同感です。経済が成長し、企業組織が拡大している状態であれば、多数の幹部候補生を採用してもそれなりに育成し処遇することができたでしょうが、組織が拡大しないとなると、全員を幹部候補として採用し処遇することは困難になるからです。こうした人がキャリアを形成するには専門職派遣は有望な方法でしょう。とりわけ派遣労働者が仕事を選択できる登録型派遣は、好まざる派遣先に派遣される可能性がある常用型派遣より有利かもしれません。また、雇用期間の定めはないものの業務を特定し、当該業務が縮小した場合には当然に退職するという雇用契約も十分あり得るものだろうと思います。こうしたことを可能にするような法制度の整備が望まれます。

…キャリアラダーという言葉は、近年米国で提唱されている概念であるが、その意味は、相対的に容易な職務から高度な職務にまで至る形で体系化された「職務の階梯」であり、個々の職務に即して必要な教育訓練及び職務経験と、職務別の賃金水準とを定めたものである。キャリアラダーの構築は、地方において圧倒的に不足しているディーセントワークを拡大するために、地域に存在する様々な産業について地道な調査を行い、そこで労働者が、雇用主にとっても利益が生じる形で、自らの労働の価値と生活水準とを高めて行くことができる可能性を開拓していく取組みである。
 今後日本においても、雇用・教育・産業に関わる各行政機関・セクターの連携の下に、こうした取組みを行うための体制を整備し、地域におけるキャリアラダーの構築を進めて行くことが切実に必要とされていると考える。(p.50)

ここまでくると分野別質保証の何の関係がという感じになってきますが、それはそれとして、能力が伸び、付加価値が高まることで労働条件も向上するという基本的な考え方は適切だと思います。企業がそうした高付加価値な仕事を増やすべく努力する必要があることも事実でしょう(というか、そうでなければ企業は存続できないでしょうし)。実際、わが国で一般的な職能資格制度では、社内資格ごとに必要とされる能力要件、業務経験、教育訓練などが規定されていることが多いでしょう。
ただ、これを「職務別」にやろうとすると、できる職種と難しい職種とがあることには留意が必要です。わが国でも医療機関ではキャリアラダー、とりわけ看護師のそれを策定している例が多々みられますが、これは必要なスキルが比較的明確で、かつ汎用的であり、基本的な要素技能の変化がなく、しかも労働者の流動性が高く地域での賃金相場が形成されやすいといった好条件が重なっているからでしょう。こうした恵まれた職種は多くはないはずで、ほとんどの職種においては、職務内容や必要能力を文書化しようとしても膨大になりすぎて書ききれないとか、書いたとしてもすぐに陳腐化してメンテナンスしきれないとかいう問題が起こりそうです。まして賃金は、かつては高給を得られた高技能の職務であったにしても、陳腐化して需要がなくなれば価格(賃金)も下がるわけで、労働市場の需給の影響を受けますから、その水準を文書化することには無理があります。しかもそれを行政機関がやるというわけですが、そんな社会主義計画経済的なやり方がうまくいくとはとても思えません。労使交渉とか、社会対話を通じてやろうというのならまだしもですが…。

グローバル化は、世界的な規模での「最適化」を可能にすることにより、経済的な効率性を飛躍的に高めることを可能にしつつある。しかし同時にそこでの「人」は、大きな成功の機会を掴むことも可能となる一方で、自らの価値に対する市場での評価を通じて、常に他者と代替されてしまう不安の中に身を置く存在になる。当然圧倒的に多くの人々は、後者の境遇をより強く感じることになるだろう。
…仕事における「専門性」は、…グローバル化の下での恒常的な代替可能性にさらされる「個人」が、それらに抗して一定の堅牢な生活と尊厳の基盤を保持する拠り所となる可能性をも有している。
…こうした「職業における専門性」に、大学の学士課程教育における「学問的な専門性」が一対一に対応することは、医師や教員の養成課程のような特定の分野を除けば基本的には稀であろう。
 しかし、大学の学士課程教育での専門性は、今後の職業生活における専門性を獲得していく上での基礎となるものとして重要な役割を担っており、緩やかではあれ、教育の「出口」である職業とのある程度明確な対応性が意識される必要がある。現状の就職活動において、ある種のジェネラリスト的な資質が重視される傾向にあるからと言って、専ら就職活動の支援にのみ傾注して、専門教育を通じた職業能力の形成を疎かにすることがあってはならない。(pp.49-50)

「恒常的な代替可能性…に抗して一定の堅牢な生活と尊厳の基盤を保持する拠り所となる」ような「専門性」となると、それなりに稀少でかつ一定の需要のあるものである必要がありそうです。それは当然学士課程で獲得できるようなものではなく、したがって「学士課程教育での専門性は、今後の職業生活における専門性を獲得していく上での基礎となるもの」という言い方になるわけですが、それはそのとおりとしてもどこまで「重要な役割」を持っているかというと疑問もなしとしません。比較的大学での専門教育と仕事の専門との関係が強いといわれる理系の分野でも、実際には大学の専攻とまあ関係なくはないよねえといった程度の仕事に配属され、そこで一流のエンジニアに育ったという例はあまたあります。きのうも書きましたが、たしかにこれまで学士課程で職業との関係があまりに軽視されがちだったのを修正しようという考え方はもっともではあるものの、しかし多様性を容認する中で「現状の就職活動において〜あってはならない」と断言することまでできるのかどうかは疑わしいように思われます。

…「職業における専門性」と「学問的な専門性」をより近づけようとする取組みを進めるに当たっては、当該分野で学んだ学生が、学んだ内容に対応した適切な「職業」に就く見通しを持てることが重要であり、当該職業に対する社会のニーズと、当該職業に従事したいと考える人達の存在とが重要な前提となる。そこでは、個別の大学のカリキュラム改革という次元を超えて、特定の職業に従事する人々が具備すべき実務能力に関して、社会的な信頼が寄せられる、一定の客観性を有する基準のようなものが形成されることが望ましく、このために個々の大学を超えた存在、例えば専門の学協会等が積極的な役割を果すことが期待される。

前段の、需要がない仕事や供給過剰の仕事には就く見通しを持ちにくいですねというのはそのとおりだと思うのですが、それと認定機関が「お墨付き」を与えることとの関係がよくわかりません。TOEICの点数をみれば英会話力はかなり正しく推定できますが、TOEICがあるから英会話のできる人材の需要が増えるとは考えにくいでしょう。まあ、「お墨付き」があれば一定の能力の証明にはなりますし、それを獲得するために勉強することも基本的には好ましいわけですが、しかしすでにTOEICとか簿記検定とかいったものはあるわけで、そのための勉強ってやはり専門学校でやるものじゃないのかなあとも思うわけです。まあ大学も多様であっていいので、そういう大学も出てきていいのかもしれませんが。さらに続きます。