朝鮮人強制連行
その概念と史料から見た実態をめぐって

一橋大学非常勤講師 外村 大


はじめに

  ここのところ、国家主義的な歴史観を強めようとする人々は、いわゆる「朝鮮人強制連行」などなかったとする主張を宣伝している。しかも、本年1月17日に行われた大学入試センター試験の世界史で強制連行に関係した出題があり、これに対して新しい歴史教科書をつくる会や自民党議員らが抗議を行ったことが一般紙等でも報道され、「強制連行」の語がクローズアップされることとなった。
  これらの団体及び人々が批判している問題は、日本の朝鮮統治について述べた文として正しい文章がどれかを問い「第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた」という選択肢を正解とするというものである。
  この問題を不適切として批判する側の論拠は、「『強制連行』という奴隷狩りを連想させる用語は、戦後になってから日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された言葉であって、事実をあらわすものではない」、「『国民徴用令』にもとづく徴用…は国家による合法行為で」あって強制連行とは異なること、「どの時期のできごとを強制連行とよぶか、その定義は人によってまちまちである」こと(2004年1月27日付、新しい歴史教科書をつくる会会長名で出された、大学入試センター所長宛の「大学入試センター試験の『強制連行』に関する設問についての公開質問状」)、外務省は「戦時中に朝鮮半島から渡航してきた労働者の大半は自由意思だった〔自由意思にもとづいてやってきた、という意味と考えられる〕」という見解をとっていること(2004年1月25日付、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会会長佐藤勝巳「大学入試センター『朝鮮人強制連行』出題に関する声明」)と整理される。
  だが、これらの点は大学入試センターの出題を不適切とする論拠にはなり得ないか、あるいは論拠自体が「強制連行」の語や史実についての事実誤認をもとにしたもの(でなければ意図的な歪曲や虚偽の宣伝によっている)であると言わざるを得ない。
  そもそも、大部分の日本近現代史、植民地期の朝鮮を専門とする研究者や、関連する文献に目を通したことのある人々、戦時の状況を実体験として知る朝鮮人やその家族・遺族において、第二次大戦中、朝鮮人を対象として暴力的な動員政策がとられたことに疑いを差し挟む者はいないであろう。
  しかし、前記のような批判によって、あたかも「強制連行」の語が何か問題を持つものであるかのような印象や、「強制連行」と言われるような実態を裏付ける根拠が薄弱であるかのような誤解を一部の人々に与えている可能性も否定できない。
  そこで、以下では、「朝鮮人強制連行」という語が歴史研究の世界でどのように用いられているか、いかなる背景のなかで用語が成立したか等についてまず述べ、あわせて、朝鮮人戦時動員の実態がどのようなものであったかについて、いくつかの具体的な史料から検討することとする。

1、 朝鮮人戦時動員の諸形態と「朝鮮人強制連行」の概念規定

  新しい歴史教科書をつくる会(以下、「つくる会」と略)は「強制連行」の定義が多様であることを問題と考えているようだ。「強制連行」の語がしばしば多様な使われ方をしていること自体はその通りである(もっとも、後に見るように時期的に区切って「国民徴用令段階」のみを強制連行と呼ぶ者は、この語を積極的に用いる論者のなかにはおそらくいない)。しかし、論者によって定義が異なる学術用語は思いつくだけでも相当ある。歴史の分野に限っても、例えば、「明治維新」、「自由民権運動」、「大正デモクラシー」といったかなり基本的な語でも、いつからいつまででを指すのかや、どの歴史事象をそのなかに含むか、について多様な意見がある。ただし、それらの用語は、どの研究者もその概念に含まれることを共通に認めるという、いわばコアの部分についての見解の一致がある(例えば、自由民権運動という概念について見れば、困民党の動きや三大建白運動をそこに入れるかどうかは専門的な研究者の間で意見が分かれるが、国会請願や自由党・改進党の活動を自由民権運動と考えることに異論はないはずである)。逆に言えばもしそれがなければ、これらの用語は流通し得ないはずである。
  「朝鮮人強制連行」という用語についても同様である。何も論者ごとにその指し示す内容がまったくバラバラなのではなく、「朝鮮人強制連行」の意味する範囲を広くとる論者もいれば、限定的に用いる人物もいるが、大体の共通した認識はあり、朝鮮人強制連行という語で示されるような史実がなかったと考える歴史研究者はほとんどいないのである。少なくとも、そのような主張がこの分野の専門的な研究者の間で傾聴に値するとして取り上げられたことを筆者は知らない。
  もっとも広く「朝鮮人強制連行」の概念をとらえるのは、おそらく、戦時期(ここでは1937年7月の日中間の戦争全面化以降、1945年8月の日本帝国の敗戦確定までとする)に朝鮮人に対して行われた日本国家の動員政策(朝鮮人戦時動員)総体をそこに入れるケースである。つまりは戦時期に仕事についていなかった朝鮮人、ないしはそれまでについていた仕事や学業を途絶させて日本の戦争遂行のために新たな任務(労働者として、あるいは兵士として)につかせたこと、および職場の異動や転業について罰則を背景に禁じて戦争と密接に関わる業務への就労を強いたこと、のすべてを朝鮮人強制連行とする見解である。
  当然ながら、朝鮮人戦時動員自体も、根拠となる法や制度、動員の対象となった人々の属性、配置された場所や担うべきとされた任務、展開された時期などは多種多様である。それについての分類の仕方も様々であろうが (註1)、ここではまず、いったん、動員した側の論理に即して細かく分類し列挙しておこう。動員した側の論理に即した説明、分類は時として意味をなさない場合があるのだが (註2)、関連史料の記述の意味を理解し歴史事実の本質をつかむには、政策を実施する側が何といっていたかをおさえることが必要だからである。なお、ここでいう日本内地とは、現在の47都道府県およびいわゆる北方領土、樺太は日本帝国の領有していたサハリン島南部、南方とは日本帝国が占領していた東南アジアの諸地域、満州とはいわゆる満州国(中国東北部)、中国本土とは、日本帝国の植民地ないしはそれに準じるような地域を除く中国である。

@ 国家総動員法にもとづく労務動員計画での労働者充足のため朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場に配置し通常2年(場合によってはそれ以上の期間であったことも少なくはない)の労働を行わせた行為で、朝鮮人労働者を雇用しようとする事業主が募集の申請を行い、朝鮮総督府による労働者の募集地域とその人員を決定、認可を受けて、労働者を集めるという形態をとったもの。当時の行政当局はこれを「募集」と呼んだが、現在の研究者のなかには「割当募集」と呼ぶ者もいる。1939年7月に日本政府が政策遂行を決定し、1939年9月から実行に移され、これに代わる「官斡旋」の動員形態が実施される1942年2月頃まで行われた。
A 国家総動員法にもとづく労務動員計画(1942年からは国民動員計画)での労働者充足のため朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場に配置し通常2年(場合によってはそれ以上の期間であったことも少なくはない)の労働を行わせた行為で、朝鮮総督府の作成決定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」にもとづいて実施されたもの。具体的には、労働者を雇用しようとする事業主ないしその代行を行う関係団体が申請を行い、朝鮮総督府が募集地域、人員を認可、決定し、朝鮮総督府およびその地方行政機関と警察官憲、朝鮮労務協会などが協力して労働者を選定、送出を行った。当時から行政当局はこれを「官斡旋」と呼んで、前述の「募集」と区別していた。1942年2月に開始され、戦争終結まで制度は維持された。ただし、1945年3月に釜山下関間の連絡船の運航は止まったとされるので、これ以降は日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。
B 国家総動員法にもとづく国民動員計画での労働者充足のため、国民徴用令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場、等に配置したこと。日本政府が国民職業能力申告令にもとづき登録を行った者のなかから選んだ者に対して徴用令書を発令交付して行った。これを拒否した場合は罰則が下された。1944年9月以降、本格的に始まり(国民徴用令の朝鮮への施行は1939年10月1日であり、これ以降法的にはこの形態による動員は不可能ではなかった。実際に1944年9月以前にも特殊な場合は国民徴用令による徴用が行われていたことを示唆する史料もある)、国民徴用令廃止後は1945年4月施行の国民勤労動員令に依拠して実施され、制度は戦争終結まで維持された。ただし、1945年3月に釜山下関間の連絡船の運航は止まったとされるので、これ以降は日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。
C 国家総動員法にもとづく国民動員計画の労働者充足のため、女子勤労挺身令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して朝鮮半島在住の朝鮮人女性を日本内地の工場等で就労させたこと。1944年8月以降始まり、その廃止後は、1945年4月施行の国民勤労動員令に依拠して実施され、制度は戦争終結まで維持された。ただし、1945年3月に釜山下関間の連絡船の運航は止まったとされるので、これ以降は日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。
D 国民徴用令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して日本内地在住の朝鮮人を土建工事現場などに配置し、就労させたこと。1943年10月以降、戦争終結まで実施された。
E 労務動員計画および国民動員計画には計上されていない、「軍要員」として朝鮮人を、日本内地、朝鮮内、満州、中国本土、南方などにおいて、戦争遂行のための基地建設、捕虜監、運輸などの業務に就かせたこと。
F 1938年4月施行の陸軍特別志願兵令、1943年8月施行の海軍特別志願兵令、1943年10月の陸軍省令第48号「昭和18年度陸軍特別志願兵臨時採用規則」により、朝鮮人を日本軍軍人とし、戦争遂行を担わせたこと。
G 1943年10月に改正された兵役法にもとづき朝鮮人を徴兵し日本軍軍人として、戦争遂行を担わせたこと。召集は戦争終結まで続き、この形態による動員では釜山下関間の連絡船の運航停止後も日本内地に向かわせた事例があると見られる。
H 朝鮮人女性をいわゆる従軍慰安婦としたこと。
I 朝鮮半島在住の朝鮮農民を技術研修などの名目で、労働力の不足していた日本内地の農家の農作業を補助させたこと。朝鮮農業報国隊と呼称された。
J 朝鮮総督府ないしは翼賛組織の指導のもとで、朝鮮半島在住の朝鮮人女性や朝鮮人学生などを、戦争遂行のために工場や土木建設工事現場などで短期的な勤労奉仕にあたらせたこと。
K 朝鮮総督府の斡旋によって朝鮮半島在住の朝鮮人を戦争遂行のために朝鮮半島内の炭鉱や土木工事現場、軍需工場などで就労させたこと。
L 戦争遂行と密接にかかわりをもつ生産を行う工場等に就労していた朝鮮人でそれまで国民徴用令の適用を受けていなかった者に対して、それを適用して職場の移動や転業を禁じたこと。現員徴用と呼称された。

  「朝鮮人強制連行」についての最初のまとまった著作である、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)、での強制連行政策についての説明、具体的には、48〜68頁の「二 強制連行(1939〜1945)」は、これらのすべてについて触れられている。もっとも、このような朝鮮人戦時動員すべてを朝鮮人強制連行とする論者はそれほど多くはない。
  そこで、一般的な歴史辞典等で「朝鮮人強制連行」がどのように記されているかを見てみることとしよう。調査は、ある程度大きな公立の図書館に行けば手にすることのできる(実際に調査は公立図書館で行った)、近年出た歴史辞典等16冊を対象とした。このうち、二つについては朝鮮人強制連行に関する項目の掲載がなかった。一つは『日本史事典』(朝倉書店、2001年)、もう一つは『山川世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年)である。前者で記載がない理由は不明であるが、後者については、同じ出版社から姉妹版とも言うべき『山川日本史小辞典』が出されており、そこにすでに「朝鮮人強制連行」の記載があることが関係していると見られる。残りの14冊については、「朝鮮人強制連行」ないしそれに類する語が項目として掲載されていた。「強制連行」の語が、歴史用語として広く認知されていることがあらためて確認できる。

表 主な歴史辞典等での強制連行関連の記述
文献名 出版社 出版年月 項目名 執筆者 「強制連行」概念の範囲 備考
国史大事典 吉川弘文館 1988年9月 朝鮮人強制連行 姜徳相 @、A、B、C、E  
日本史総合事典 東京書籍 1991年10月 朝鮮人・中国人強制連行    
昭和史の事典 東京堂出版 1995年6月 朝鮮人強制連行   @、A、B  
ワイド版 日本史辞典 角川書店 1997年9月 強制連行   @、A、B、E、H  
日本史広辞典 山川出版社 1997年10月 朝鮮人強制連行   @、A、B  
日本歴史大事典 小学館 2000年7月 強制連行 田中宏 @、A、B  
新訂増補 朝鮮を知る事典 平凡社 2000年11月 強制連行 田中宏 @、A、B、E、H  
山川日本史小辞典(新版) 山川出版社 2001年5月 朝鮮人強制連行   @、A、B  
角川世界史辞典 角川書店 2001年10月 朝鮮人強制連行 宮田節子 @、A、B  
朝鮮韓国近現代史事典 日本評論社 2002年7月 強制連行・徴用 朴垠銀 @、A、B、H、K 原著は韓国で1990年に出版
岩波小辞典 現代韓国・朝鮮 岩波書店 2002年8月 強制連行 庵逧由香 @、A、B、C、E、G、H  
岩波日本史辞典 岩波書店 1999年 朝鮮人強制連行   @、A、B、E、H  

  さて、それぞれの辞典等における関連項目記述で、「強制連行」概念が何を含んでいるかを示せば、別表のようになる。「『強制連行』概念の範囲」の項目の数字は前述の動員の諸形態にふった数字に対応している。
  ここに見るように、大半の辞典では、少なくとも、@、A、Bは「強制連行」の範疇に入れられていることがわかる。『日本史総合事典』の「朝鮮人・中国人強制連行」の項目は、「日中戦争後、朝鮮人・中国人を日本などに送って行った大規模な強制的軍需動員」という、ごく簡単な説明にとどまり、どこまでを強制連行としているのか判然としない。しかし、@、A、Bを排除したものではないと判断してよいだろう。つまりは、バリエーションはあるにせよ、@、A、Bを「強制連行」の概念のなかに入れることは、歴史研究者の間で一致していると言って差支えない。
  この@、A、Bは、いずれも日本政府の決定した動員計画(労務動員計画ないし国民動員計画)にもとづいて行われたこと、朝鮮内から朝鮮外への動員(主に日本内地)であったこと、戦闘に従事したり戦場に送られたりしたのではなく労務動員であったこと、で共通している。しかも後に見るように、確かに準拠する法令や手続きは異なるのだが、実態としては変わりがない面もあるので、これらをひとくくりのものとして強制連行とする考え方は妥当であろう。
  逆に、軍要員や兵士とさせられたケース、従軍慰安婦としての連行についてはこれを「強制連行」に入れている辞典は一部にとどまり、朝鮮内での動員、短期的な勤労奉仕等までを「強制連行」概念に含めているものはない。これらの形態の動員を「強制連行」に含めないのは、おそらく、兵士となったり戦場で性的奉仕を行ったりすることは、一般的な労務動員とは異なるとの判断や、短期的な勤労奉仕、朝鮮内での就労を連行とは言いがたいという判断にもとづくと考えられる。
  このほかに、制度や法令の文言だけではなく、個々の事例での実際の動員がどのようになされたかを組み合わせて、「朝鮮人強制連行」の概念を規定する見解もあり得るだろう。例えば、物理的な暴力によって労働現場に送られたケースのみを「朝鮮人強制連行」と考える、あるいはこれに加えて心理的な圧迫や経済的窮乏が背景となって本人の意思に反して動員政策に応じた事例も「朝鮮人強制連行」とすべきだ、といった主張である。
  その意味では確かに、不用意に「朝鮮人強制連行」の語を用いた場合においては、混乱が生じるおそれはないわけではない。しかし、前述のような朝鮮人戦時動員のうち、どこまでを「朝鮮人強制連行」の概念として設定するかは、それぞれの論者の自由である。
  重要なことは、朝鮮人戦時動員の諸形態として前記のようなものがあり一般には@〜Bが「朝鮮人強制連行」として把握されていることを踏まえ、学術論文やそれと同程度の厳密さを要求される文書あるいは会話において「朝鮮人強制連行」の語を用いる場合は、用語の意味内容を明らかにした上で使用することである。さらに言えば、何かの論争において相手が用いる「強制連行」の語に疑義があるのならば、それが意味するところが何であるのかを問いただして、無用な誤解や摩擦を避ければよいのである。
  さて、ここでまで述べたことからすでに前記の大学入試センターの設問が不適切であったわけではないことがわかるだろう。第二次世界大戦の起点は一般には1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻とされるが、あるいは日本との関わりで1941年12月8日の日米開戦以降と考えるケースもあるだろう。いずれにせよそこから1945年8月15日までが第二次世界大戦中となる。一般的な概念での「強制連行」、つまり@〜Bの動員形態による朝鮮人の送出はこの期間に行われているのである。仮に一般的ではないもっと狭い概念で「強制連行」を考えていた者がいたとしても正解の選択肢を選ぶことになるはずである。強制連行の実在を否定するためにわざとハードルを高くしたものは除外するとして、もっとも狭い「強制連行」概念は、@〜Bのうちで直接的な暴力を加えられて労働現場に配置されたケースのみを指すということになるだろうが、それも実際に行われていたことが確認できる。しかもそれが行われたのは、日米開戦以前に限るとか、ドイツのポーランド侵攻以前の時期だけであるといったわけではなく、少なくとも1944年の朝鮮半島で行われていたからである。その史料的な根拠は後に提示する。

2、 国民徴用令の適用による動員とそれ以外の動員の同質性と異質性

  ところで、「強制連行」の語の持つ積極的な意味を認める論者のなかには見受けられないが、労働力としての朝鮮人戦時動員の諸形態、あるいはそのなかでも前記の@〜Bのうち、国民徴用令の適用による徴用=Bと、それ以外=@、Aを区別すべきだという見解がある。例えば、1982年の教科書検定の際、「強制連行」の語の削除に対する批判への反批判として、文部省は次のような見解(要旨)を示している。

  戦時中の朝鮮人労働者の内地移入は、時期によって形態が異なり、昭和14〜17年は自由募集、昭和17〜19年は「官あっせん」であって、形式上、自由応募によるものだった。昭和19年以後、国民徴用令が適用されることとなった。従って、これらを一括して「強制連行」と表現することは適当でない(註3)

  国民徴用令による動員は、国家が登録された就労可能な者のなかから選んだ人物に対して徴用令書を渡して指定された事業所での就労を命令するものであり、これを拒否すれば法によって罰せられた。これに対して、@=「割当募集」やA=「官斡旋」は、国家が具体的な個人に対して就労すべき事業所を特定して命令を下すものではなく、動員に応じない者を強く罰するという法律上の規定はない。その意味では、つまり法律の条文に限定してみれば、国民徴用令と@、Aの動員形態は異なる。
  その点を認めたとして、しかし、動員される側から見て、国民徴用令の適用による動員とそれ以外の戦時動員が区別されるような質のものであったかどうか、という問題を考える必要がある。つまり、動員する側が募集だ、官斡旋だ、徴用だ、といろいろ名称を変えたにせよ当時の朝鮮人にとっては、そのいずれもが、国のために働くことが強要されるというという点、あるいはさらには、公権力を背景として心理的な圧迫や物理的暴力などによって自分の意思に反して連れて行かれ労働を強いられたという点で変わりないものではなかったか、という疑問が提出されなければならないのである。
  しばしば、朝鮮人戦時動員の対象となった人やその遺家族の証言等では、「徴用」という語の不正確な使用がなされている。「私は1940年に徴用に取られて日本の炭鉱で働くことになった」とか「自分の父は太平洋戦争がはじまった直後に徴用された」といったものである。国民徴用令にもとづく動員は1944年9月以前にも朝鮮半島在住の朝鮮人に対しても例外的になされていたようなので、間違いでない可能性もあるにせよ、おそらくほとんどは割当募集や官斡旋での日本に来たことを徴用と誤解したものだろう。
  しかし、この法令や制度にかかわる「誤解」は、動員の実態に対する「正確な理解」にもとづいていたのではないだろうか。
  後述するが、実際に同時代の史料から見て、割当募集や官斡旋段階においても、公権力を背景とした強制力によって労働者の充当がなされていた。したがって、労働者送出段階の実態、そこにおける国家権力が介在した暴力性の有無について考える際には、国民徴用令の適用による動員とそれ以外の動員を区別することは意味がないのである。あえてそれを区別し強調する論者に対しては、日本国家が朝鮮人に対して行った人権侵害を隠蔽しようという意図を持っているのではないかという疑いを抱かざるを得ない。
  なお、制度や法令上の問題について再び戻れば、労災補償などに関してみれば、国民徴用令の適用を受けた労働者である否か(この点にも関連して、割当募集や官斡旋で動員された者でも、その後、国民徴用令の適用を受けた労働者となったケースは少なくないことに注意を促しておきたい。これは、すでにある工場等で就労している労働者に対して国民徴用令を適用して移動を禁止するといういわゆる現員徴用の制度が、朝鮮人に対しても適用されたためである)で差異があったことは確かである。徴用された労働者に対しては国家が労災補償を行い、死亡した場合は遺家族に対して手厚い援護を行うことなどが規定されていたからである。
  つまり、国民徴用令の適用による労働者に対しては国家としても責任をもつが、それ以外の労働者については保護や援護を行わない、という法的な差がつけられていたのである。したがって、朝鮮人に対する国民徴用令の適用が少なかったからといって日本国家の戦時動員政策が朝鮮人に対して厳しくなかったということにはならない。これは、朝鮮人については、日本国家が社会保障的な制度を備えて働かせたケースが少なく、多くの場合は、国家の意思として動員しているのにもかかわらず国家が責任を負わない形態の労働者にしていたというだけの話である。
  さらに労働者としての動員以外にまで目を広げれば、動員した相手に対する国家の拘束性の強さとそれに対する保障の重さの関係はよりわかりやすくなるだろう。兵士にすることは完全に国家に身を捧げよということであるが、それだけに傷痍軍人や遺家族に対する援護は、徴用労働者などに比べて各段に手厚くなっていた。つまりは、国家の拘束性と、国家としての援護の厚さは、ともに、兵士>徴用労働者>一般の労働者、となっていたのである。ちなみに、動員された者の地位や名誉について見ても、当時の公式の価値観はこの序列となっている。日本帝国の兵士となることは大変な名誉であったが、徴用された者も「応徴士」と呼ばれて兵士に准じるくらいの存在であると持ち上げられ、一般の労働者と差がつけられていたのである。
  たとえて言えば、これは日本帝国株式会社が次のような労務の編成で事業を進めていたということである。すなわち、正社員、人材派遣会社A社の雇用の形となっている派遣社員、下請け業務を日本帝国株式会社から請負った会社B社の社員がいる。そして、正社員は日本帝国の基幹的な業務を担っており、社内共済も利用できる。A社の社員(派遣労働者)が担う仕事も日本帝国としてかなり重要であり、ほとんど日本帝国の指示で動いているわけだが、給与はA社が出しており、日本帝国の社内共済も一部利用できる。B社の社員(下請け労働者)の仕事も実際には日本帝国株式会社の業績をあげるためのものなのであるが、給与はB社からもらい、日本帝国の社内共済はまったく利用できない。日本帝国がこのような会社であったとした場合、正社員は兵士、A社の社員(派遣労働者)が国民徴用令によって徴用された者、B社の社員(下請け労働者)が割当募集や官斡旋による労働者、となる。
  ついでに述べれば、このような待遇の差自体にも問題があるにせよ、日本帝国とそれを引き継ぐ日本国の朝鮮人に対する対応は、別なレベルで相当に問題があると言わざるを得ない。それは、派遣社員や下請け会社の社員のみならず正社員も含めて、労災補償もしなければ未払い賃金も払っていない、というようなものであるためである。

3、「59年外務省見解」と「03年外相答弁」の問題点

  「はじめに」でも触れたが、しばしば「強制連行はなかった」という主張は、一九五九年に外務省が示した見解(以下、「59五九年外務省見解」と略)に根拠を置いている。また、これに関連した、2003年9月30日の第157国会国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会における川口順子外務大臣の答弁(以下、「03年外相答弁」と略)も「強制連行はなかった」ことを再度明確にしたものであるという捉え方もなされているようである。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会会長佐藤勝巳「大学入試センター『朝鮮人強制連行』出題に関する声明」(以下、「救う会声明」と略)には次のような部分がある。

  よく知られているように北朝鮮は拉致事件追求(ママ)をかわす狙いで、国連などの場でくりかえし「日本が朝鮮半島占領時代に840万人を強制連行した」と主張している。
昨年末の北京での非公式接触でもそれを持ちだした。
  昨年9月30日の国会「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会」で川口外相は、山谷えり子議員(当時)の質問に対して、昭和34年に外務省が調査したが、そうした事実はない、戦時中に朝鮮半島から渡航してきた労働者の大半は自由意思だったという答弁をした。

  では、「59年外務省見解」や「03年外相答弁」とはどのような内容なのだろうか? 若干長くなるが、まず、これについて明らかにしよう。
  「59年外務省見解」は、正式には「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」というタイトルの文書のようである(「03年外相答弁」による)。これについては原文書を見ることができなかったが、次に引用する、『朝日新聞』1959年7月13日付記事が紹介したもの(要約ないしは抜粋と思われる)と同じであると考えられる。

一、 戦前(昭和14年)に日本国に住んでいた朝鮮人は約100万人で終戦直前(昭和20年)に200万人となった。増加した100万人のうち70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別渡航者とその間の出生によるものである。残りの30万人は大部分工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは翌年3月の下関―釜山間の運航が止まるまでのわずか7ヵ月であった。
一、 終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち75%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。

  同じ記事によれば、上記の声明は「在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで『在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまは不要になったため送還するのだ』との趣旨の中傷を行っているのに対し」出されたものとされている。筆者は当時の韓国側などの主張(記事中にある「中傷」という表現は妥当ではないだろう)がどのようなものであったか、韓国政府や何かの団体、あるいはそのなかの責任ある地位につく人物の主張であるのか、その具体的な文書や発言を指しているのかについて確認していない。しかし、戦時中、暴力的に動員されたり、騙されたりして日本内地で働かされ、ひどい目にあった記憶を鮮明に持ち、それに対する説明を、日本政府に求める人々が当時、多数いたことは想像に難くない。つまりは、朝鮮人に対して行われた戦時動員の実態レベルにおける暴力性や非人道性がそこでは問題とされていたと推測できる。
  ところが、外務省は、戦時動員の実態がどうであったかについてはっきりとした見解を示していない。そして、この点についてはっきりとした見解を示さないことで、結局のところ、戦時動員はそもそもほとんど行われなかったり、問題とされるような戦時動員はなかったりしたかのような印象を与えるものとなっている。
  「59年外務省見解」のポイントのひとつは、“戦時中に国民徴用令の適用によって動員された朝鮮人は少数である”というものだろう。これは事実として間違いではないだろうが、これによってあたかも国家の意思を背景とし、行政機関の職員が関与した戦時動員がこれだけであったかのような誤解を与える。そして、それ以外のポイントである、“戦時中増加した在日朝鮮人人口のうち、30万人は企業の募集に応じてきた者である”、“現在、日本に居住している朝鮮人は自由意思によって在留した者である”ことを述べているのは、暴力を加えられたり騙されたりしてきた人の存在を隠蔽しているのである。
  このことから、「59年外務省見解」は、朝鮮人戦時動員の実態について誤解を与える、問題の多いものであると言わなければならない。

  次に、「03年外相答弁」について見よう。これは国会での質疑のなかでなされたものであり、長くなるが、質問者とのやり取りを含めて引用しておく。「…」は省略である。

○山谷委員 保守新党、山谷えり子でございます。…
  この秋、国連総会での焦点は、イラク復興と北朝鮮問題でした。川口大臣は、北朝鮮の核ミサイル問題とともに、拉致問題を国連総会の場で初めて提起されました。
  …川口大臣の演説の後に、拉致は日本の敵対政策の産物であると、北朝鮮は違う次元での反論がありました。この北朝鮮の反論に対し、川口大臣はどのようにお考えになられるか、また、国際社会に改めて訴える姿勢がおありなのかどうか、お伺いしたいと思います。
○川口国務大臣 今月の23日に国連総会で演説をいたしまして、その中で北朝鮮の拉致の問題を取り上げました。翌日の24日に、これを否定するということで北朝鮮側が答弁権を行使したわけでございまして、これについては大変に遺憾であると私は考えております。その当時、私はもう既に帰国の途上にございましたので、出席をしていた本村大使が答弁権を日本として行使いたしました。そして、帰国された拉致被害者の御家族の帰国実現を早期に図らなければならないということを指摘しながら、北朝鮮側に拉致の解決、これを求めたわけでございます。
  それで、今委員が御指摘になられた、北朝鮮側がそのときに言いましたことは、当時、日本が840万人の朝鮮の人々を軍人や労働者として強制的に徴発したということを言っているわけでございます。日本といたしましては、私といたしましては、こういった主張、これの根拠が何に基づくものなのかということが不明であるというふうに考えております。
  それで、答弁権を行使いたしましたときには、まず、我々としては、拉致問題に国際社会の関心を集中させたい、論点を散らすということではなく、拉致問題について関心を持っていただきたいということでございましたので、この北朝鮮側が言った点、これについて反論権は後日に留保をするということでそういった対処をいたしましたけれども、この留保をした問題につきましては、今後、しかるべき機会をとらえて反論をしていきたいというふうに考えております。
○山谷委員 ぜひ、しっかりした、事実に基づいた反論をしていただきたいというふうに思います。
  例えば、840万人強制連行があったという発言でございますけれども、日本の場合は合法的な戦時労働力調達方法をとっているのであり、また、840万人という数字も全くどこから出たのかわかりません。これが、反論がなければまた事実として定着してしまいます。
  外務省は、昭和34年、ほとんどが自由意思に基づいていたという調査結果を発表なさいましたけれども、現在の外務省の見解というのは、その辺はどういうものになっているんでしょうか。
○川口国務大臣 委員がおっしゃいましたように、昭和34年の時点で外務省の調査がございまして、これは、「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」という資料でございますが、昭和34年にその記事資料を発表しまして、その中で、戦前から終戦時に至る在日朝鮮人の方々の人数の動きについて記述をしているということでございます。
  その資料につきましては、引き続き、これは外務省としては資料として考えております。

  「引き続き、これは外務省としては資料として考えております」という部分が、「59年外務省見解」を現在もなお、問題ないものと考えているのかどうかについては解釈の余地があるだろう。しかし、それが重大な誤りを含むとか、誤解を与えるものであるので修正したいというものでないことは確実である。
 このような答弁では「日本政府は『59年外務省見解』が現在でも正しいと考えている」という誤解、ないし曲解を行う者もいないとはかぎらない。実際にこの答弁を引出した質問者は「国会で、川口外相は、昭和34年に外務省が調査したが、そうした事実はない。今もその時の調査を正しい資料としていると答えられた」という文章を公表している(『産経新聞』2004年1月26日「アピール」)。
  「59年外務省見解」の問題点を指摘しなかった「03年外相答弁」は、これを根拠に「朝鮮人強制連行はなかった」と誤解ないし曲解している人々の主張を勢いづかせてしまったのであり、この点は大きな問題であると言わなければならない。

4、「強制連行」概念を混乱させているのは誰か?

  ところで、「03年外相答弁」がどのような質問に対してなされたかを述べれば、それは、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略)の国連総会の場での主張、つまり北朝鮮は「840万人強制連行」といっているが事実か、というものであった。また、「救う会声明」でも、北朝鮮が「くりかえし『日本が朝鮮半島占領時代に840万人を強制連行した』と主張している」ことを批判している。さらに「つくる会」が大学入試センターに対して提出した質問で最初にかかげられたのは、「北朝鮮は拉致の責任逃れのため『強制連行』があったと主張しているが、本設問中の『強制連行』は、北朝鮮の主張するものと同じ意味を持つものなのか、それとも違うのか」というものである。
  ここで細かいことであるが、北朝鮮が公的な場で「強制連行」の語を用いたかどうかについて疑問を呈しておきたい。というのは、筆者の知るところでは、北朝鮮においては、歴史研究の論文や公的な文書で「強制連行」(北朝鮮では一般的に漢字は使わないが、もし漢字表記すれば日本語と同じである)の語はあまり使われないからである(念のために言っておけば、在日の諸団体は異なる)。ただし、まったく使われないわけでもないらしいので、一応、北朝鮮が公的な席で「強制連行」という語を使ったかもしれないと考えて話を進めることとする。
  その上で、先に引用した国会の議事録をもう一度見てみよう。川口外相は、問題の国連総会の状況に触れて「北朝鮮側がそのときに言いましたことは、当時、日本が840万人の朝鮮の人々を軍人や労働者として強制的に徴発したということを言っているわけでございます」と述べている。ここからは、おそらく北朝鮮が問題にしたのは「朝鮮の人々を軍人や労働者として強制的に徴発した」ことであったことがわかる。つまりは、たとえ北朝鮮が「強制連行」の語を用いていたとしても、どのような動員形態を強制連行というのかについては明確にしていたのである。
  ところが、山谷えり子議員にせよ、「救う会声明」にせよ、「つくる会」の質問状にせよ、自らが使う「強制連行」の概念が何であるかをはっきりさせていない。また、「北朝鮮の強制連行概念」(というのがあるのかどうかは実は疑問なのであるが)のどこがおかしいかについても言及していない。自分たちの用いる概念の定義を明確にせず、批判の対象としている相手の用いる概念のどこがおかしいかを具体的に指摘しないままに議論を進めるのであれば、それは概念の混乱をもたらすだけである。また、すでに述べてきたように、北朝鮮は国連総会で「強制連行」の語を用いていない可能性があり、その場合は事実を捏造して相手を批判していることになる。
  ところで、前記の議事録を見ると、川口外相は北朝鮮側の主張に対して「日本といたしましては、私といたしましては、こういった主張、これの根拠が何に基づくものなのかということが不明であるというふうに考えております」と述べている。
  この部分についても川口外相の言いたいことが、筆者にはいまひとつよくわからないのだが、これがもし、 “国民徴用令を適用した朝鮮人は少数のはずだ”とか、“日本内地に連れてこられた朝鮮人はそんなに多くはない”とか、“いくらなんでも840万人を奴隷狩りのように連れてきたわけはない”といった話であるとすれば、大きな問題である。
  840万人が奴隷狩りのように連行してきたなどという事実がないことはちょっと考えればわかることであるが、何も北朝鮮もそんなことは言っていないはずである。北朝鮮のいう840万人は「朝鮮の人々を軍人や労働者として強制的に徴発した」人数なのである。つまりは、一般的な労働者としての動員も、軍要員も、軍人にしたことも、朝鮮外の労働現場に配置したことも、朝鮮内の軍需工場や土木工事現場で働かせたことも全部ひっくるめた朝鮮人戦時動員の対象となったのが840万人だと主張していると見るべきであろう。日本が行った戦時期の動員政策はすべて朝鮮人にとっては堪えがたいもので強制されたものであった、というのが北朝鮮の歴史認識であるから、動員政策総体をひとまとめにして論じるということは特に驚くことではない。こんなことは、少々、北朝鮮の学者の書いた近代史の本(日本語訳もいくつか出ている)に目を通したことがあるならば(そうしたことについて外務省が情報収集しているのであれば)、わかりそうなことである。
  ちなみに北朝鮮の言う840万人という数字についてもう少し具体的に内訳を知りたいと考えてインターネットで検索したところ、すぐに確認できた。『朝鮮新報』のホームページに『労働新聞』2003年1月31日付「日帝が840万余人の朝鮮人を強制徴発」という記事の紹介がある。この記事には「840万余人の内訳を具体的に見ると、強制徴兵者の数は陸軍(「志願兵」)が1万7664人、陸海軍(「徴兵」)が24万847人、「学徒兵」が4385人、陸海軍(軍属)が15万4186人で、強制徴用者の数は778万4839人、日本軍「慰安婦」は20万人となっている」の文言があったという。「強制徴用」の語が何を指すかは不明だが、たぶん割当募集、官斡旋、国民徴用令の適用による徴用、女子勤労挺身令にもとづく動員で朝鮮外のみならず朝鮮内のものについても含んでいることは確実で、さらに短期的な動員も入れているのではないかと推測される。
  さて、川口外相はこれらの数字について疑問であり典拠史料がわからない、と言っていっているのであろうか? しかし、それは奇妙なことである。
  そもそも、問題になっているのは日本の行った動員政策であり、山谷議員の表現を借りれば「合法的な戦時労働力調達方法」である。「実態としていちじるしい人権侵害があったのだから合法というのは受入れがたい」という人たちもいるだろうが、その当時、日本帝国の国民であった朝鮮人に対する戦時動員が、手続きにおいては当時の法律にもとづき行政機関が関与する形で進められたこと自体はまちがいない。
  であるならば、何人を動員したのかは当然、日本政府の資料に記録されているはずである。日本政府こそがそれを明確にすることができるのであり、またしなくてはならないことであろう。北朝鮮が独自に構築している「強制徴用」というカテゴリーについても、それが何を指すのか、どの法令にもとづく動員なのかを具体的に問いただしていけば、そこに間違いがあるのかないのかを確認できるはずである。
  なお、前述の『労働新聞』記事での数字を見れば、従軍慰安婦については概数だろうが、その他は一桁まで出されていることが注目される。そして、その概念が不明でより細かな内訳が示されていない「強制徴用者」の数はともかくとして、志願兵、徴兵された軍人などの数は、すでに日本の研究者が紹介している日本政府の文書を根拠とする数字とそんなに差はない。集計方法の違いや、統計数字の読み方の間違い、あるいは単純な計算ミスはあるだろうが、根拠なしの思いつきではなく何らかの史料にもとづいていると推測される。したがって、戦時下に日本政府が朝鮮人をどのように動員したかについて、事実を事実として確認しようと考えるのならば、お互いどんな史料にもとづいているのかを明らかにしながら具体的に数字のつきあわせをやっていけばよいのである。

5、戦後日本における「朝鮮人強制連行」の用語の成立の背景

  次に、「つくる会」の主張のうちで、「『強制連行』の語は戦後になってから日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された言葉」だ、とする部分について検討してみよう。
  「強制連行」の語が戦後になってからつくられたのは当たり前の話で別に不思議はない(そのような語を流通させたとしたらその人物は特高警察なり憲兵なりに引き立てられたはずである)。この語が用いられるようになったことが確認できるもっとも早い例は1960年に出された、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会『中国人強制連行事件に関する報告書』であると考えられる。「朝鮮人強制連行」の語に関しては、1962年に出された朴慶植『太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行について』(朝鮮大学校)、が恐らく最初の使用例である。しかし、この語を一般に広く普及させたのは、やはり朴慶植の筆による著書で、1965年に出版された『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)、によってである。
  では、朴慶植はなぜ、それまで用いられていなかった「朝鮮人強制連行」の語を使用したのであろうか? これはあまり複雑な問題ではない。
  歴史学者がある歴史事象について他者に伝えようとする場合、自らが読み込んだ史料から浮かび上がってきた史実をもっとも的確に表す語―新たに作り出したものであれ、あるいはそうでないものであれ―を選び出そうとするのは当たり前のことである。この場合もそのような歴史学者として当然のことを行ったと見るべきである。
  朴慶植は1960年頃、中国人強制連行についての研究から刺激を受けて、戦時下、日本の労働現場に連れてこられた朝鮮人に関わる史料や当事者たちの証言を収集しはじめた。それらの検討を通じて把握されたのは、動員される側から見れば割当募集も官斡旋も国民徴用令の適用による徴用も差はないという事実であった。そこから、「朝鮮人強制連行」の語を用い、著書にもこの語を用いたのである。
  もちろん、「朝鮮人強制連行」の語が用いられた背景はもう少し複雑である。すなわち、当時の研究状況や日本政府のとっていた態度がそこには関係している。
  朴の研究が出る以前、戦時中に朝鮮人が暴力的に連行され日本内地等で奴隷的な労働を強いられていた事実がほとんど知られていなかったかと言えばそうではない。むしろ、それなりに知られていたことである。
  当たり前だが戦時下の朝鮮に生きていた朝鮮人は、「強制徴用」や「強制学兵」が「強制供出」などとならんで戦中のもっとも辛い体験であったという記憶を広く共有していた (註4)。日本内地に住んでいて、しばしば同時代の朝鮮半島の事情について知らなかった朝鮮人たちの間でも、それについて述べた記録や研究の出版や民族団体が成立する前にすでに、戦時中朝鮮で行われた暴力的な動員の話が少なくとも一部では知られていた。戦中同様、特高警察は戦後直後も在日朝鮮人の言動について情報収集しチェックしていたが、それをまとめた史料のなかには、例えば、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きで而も自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた事」について批判する朝鮮人がいたことを伝えるものがある (註5)。動員されてきた朝鮮人(当時の行政当局の用語では「移入朝鮮人」)はしばしば厳しい監視のもとで就労を強いられており、したがって戦時動員がはじまる前から日本に住んでいた朝鮮人(当時の行政当局の用語では「既住朝鮮人」)とは接触ができないように隔てられていたが、職場から脱走してきた「移入朝鮮人」が「既住朝鮮人」の飯場などに入り込むことは珍しくないことであった。そこから口頭によるコミュニケーションを通じて、話が広まっていたのであろう。
  朝鮮人ばかりではない。日本人の一部にも、戦時下の朝鮮における暴力的な動員は知られていた。一般的な刊行物でそれについての文章を載せたのはおそらく、宇垣一成朝鮮総督の側近であった鎌田沢一郎の筆による、『朝鮮新話』(創元社、1950年)であろう。同書の320頁には次の記述が見える。

  …戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなって来た。
  納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果すといふ乱暴なことをした。

  その後、労働組合の職場記録運動や日朝友好運動のなかでも朝鮮人の戦時動員の非人道性を示す具体的な事実が発掘され、それについて記された刊行物も出版された。
  つまりは、当事者たる朝鮮人や当時の状況を知悉する立場にあった者(鎌田沢一郎は戦時動員政策が展開された時期には朝鮮にはいなかったが、朝鮮でつちかった人脈を通じて前記のような話を聞いたのではないかと思われる)、朝鮮人と親しい立場にある日本人などは、朝鮮人戦時動員の実態、そこにおける甚だしい人権無視についてそれなりに知っていたし、伝えていたのである。
  このようななかで、同じ時期において日本政府のとっていた態度や歴史研究の状況がどのようなものであったかといえば、そこには次のような問題があった。
  まず、日本政府について見れば、1959年に在日朝鮮人の在留の経緯に関する外務省見解が出されている。これはすでに見たように、国民徴用令による徴用のみが国家の意思による動員であったとし、あたかも大半の朝鮮人が自由意思で日本にやってきたかのように述べ、人々を事実誤認に導く内容のものであった。
  日本の歴史学界ではさすがにそれと同様の見解が披瀝されたことはなかった。しかしながら、まず、そもそも植民地期における朝鮮人に対する迫害について研究し、記した論稿は、1960年代までそれほど多くなかった。しかも、それについて触れた論稿も、実は朝鮮人に対する戦時動員の特殊性について十分に捉らえ、伝たものではなかったのである。例えば、歴史学研究会編『太平洋戦争史W 太平洋戦争後期』(東洋経済新報社、1954年)の、これに関連する記述は、戦時下の総動員体制のもとで日本人の根こそぎ動員があったことを説明したあとに「また朝鮮人も多数ひっぱってこられた。1945年の炭坑労働者総数約41万2000人のうち13万6000人は朝鮮人であった」と述べたものであり、旗田巍『朝鮮史』(岩波書店、1951年)での戦時動員についての説明も「学徒動員・徴用・訓練など、日本におけるものと同様のことが、何の発言権もない植民地の民衆に適用された」というものであった。これらは、“戦時中には、日本人も苦労したし朝鮮人も苦労した”ということは述べていても、“日本人とは異なる酷い虐待が朝鮮人に対して加えられた”ということを述べたものとは言いがたい。少なくとも、その点を明確に伝えるような記述にはなっていないのである。
  朴慶植が「朝鮮人強制連行」の語を使用したのは、朝鮮人に対して行われた戦時動員について、日本政府が実態について誤解を与えるような見解を流布していたことや歴史学界における取り組みおよび理解の不十分さを批判し、事実を正確に、かつ問題の本質を明確に伝えようとしたものであったと考えることができる。
  もちろん、それは、日本民衆の意識、さらには日本国家の政策の変化を期待するものであったはずである。あらためていうべきことではないが、歴史研究がある種の主張をもって社会に働きかけるものであるというのはごく当然のことである。
  では、朴慶植が「朝鮮人強制連行」の研究の発表を通じて願っていたのはどんなことだったのであろうか? この点に関しては、差し当たり、『朝鮮人強制連行の記録』の「まえがき」のに書かれたことばを見れば理解できると考える。彼は「朝鮮と日本との友好親善と連帯をより強化するための一つの材料として本書をまとめてみた」と述べている。あるいは、その末尾部分では次のように記している。

  わたくしは、在日朝鮮人が過去どのような苦難の道を歩いてきたか、特に太平洋戦争中の朝鮮人強制連行の問題を通して、帝国主義侵略者の正体を明らかにするとともに、在日朝鮮人の民主主義的民族権利を守るために、また帝国主義侵略者からうけた思想的残滓を少しでも除去し、朝鮮と日本の友好親善、真の平等な国際的連帯のために本書がいくぶんなりとも役にたてばと念願している。

  さて、「つくる会」は「強制連行」の語が「日本を糾弾するための政治的意味合いをもって造語された」と主張している。「日本を糾弾する」というのが、何か不当に日本国家および日本人を攻撃し貶めるというようなニュアンスで使われているとしたら、この主張は誤りであることが明白であろう。「強制連行」の語を使った朴慶植は、日本と朝鮮の民衆同士が連帯し、友好的な関係をつくりあげることを望んでいたである。
  朝鮮人、とりわけ在日朝鮮人にとっては日本との友好はかなり大切なことであり、それなしには安定的な生活は成り立たない。もし、いたずらに根拠のないことを持ち出して日本人を攻撃したならば、日本人の排外主義の標的となり、逆に自らの生活が困難なものとなるであろう。しかし、過去、朝鮮人がこうむった被害の問題をあいまいにしたままでは真の友好は生まれないし、しっかりとしたものにもならない。朴慶植はそう考えていたと思われる。史料にもとづいてかつての日本が朝鮮人に対して何を行ったかを明らかにし、それを日本人に知ってもらおうとした朴慶植の研究が、日本人総体や日本国家を不当に貶める意図をもっていたはずはないのである。
  そして、朴慶植のみならず、また在日朝鮮人だけではなく、多くの日本人研究者がその後、「朝鮮人強制連行」の語を用いるようになり、歴史辞典等の記述などを見ても今日、定着していることはすでに見た通りである。「朝鮮人強制連行」の語を用いた日本人たちもやはり、日本人と朝鮮人のよりよい関係の構築のためにできるだけ正確な史実を知り伝えようとする立場に立っていたと見てよいだろう。そこには、問題とし排斥すべき「政治的意味合い」など少しも存在していないはずである。

6、史料を通じて見た「朝鮮人強制連行」の実態

  第二次大戦下の朝鮮において極めて暴力的な手段による朝鮮人労働者の送出があったことはすでに当事者たちの様々な証言から疑いのないものとなっていると考えられる。しかし、なお、後世の証言の信憑性を云々して疑問を呈する論者もいるかもしれない。そこでここでは、同時代に記された行政当局や企業内部の文書などに依拠して、朝鮮において労務動員計画・国民動員計画の労働者充足がどのように行われたかを検討していくこととする。
  最初に、住友歌志内炭礦「半島礦員募集関係書類」(小沢有作編『近代民衆の記録10 在日朝鮮人』新人物往来社、1978年、に収録、原文書は北海道開拓記念館に所蔵)という文書について見てみよう。この書類は、1940年7〜8月、朝鮮に出張した労働者募集担当の社員が歌志内に残る労務課長宛に提出した、いわば現地報告をつづったものである。
  この時点における労務動員計画にもとづく朝鮮からの労働者送出は、「募集」と称されるものである。この動員形態も「強制連行」のカテゴリーに入れることは研究者の間で一致していることはすでに見た。しかし、一部の研究者はこの「募集」にはあまり行政当局は関与していなかったと捉えているようである。例えば、『朝鮮韓国近現代史事典』(日本評論社、2002年)の「強制連行・徴用」では「これは事実上企業に戦時動員を代行させるものだった」と説明している。
  だが、そもそも、植民地朝鮮において官庁の力は、今日の日本の行政当局とは比較にならないほど強かったのである。有力企業である住友鉱業の社員であっても、役人たちに対して下手(したて)にでて動かさなければ、ことが運ばないというのが植民地朝鮮の実状であった。「半島礦員募集関係書類」に綴られた7月24日付の報告では、募集手続きの書類提出のため道庁の関係部署を訪れたが事務室にも入れてもらえず、自分の名刺を出して一日、廊下で待たねばならなかった話が出てくる。そして、待っている間に、他社の募集担当者から、役人たちを動かすには彼らの住所入りの名刺を得たうえで「裏面からの運動」をしなければならないということを聞くこととなる。この募集担当者は「朝鮮の官吏には呆れ果てました」という感想をわざわざ記しているが、同時に「本府〔朝鮮総督府〕及主要の道へ運動すること」の検討を課長に建言している。
  しかも、官吏たちが単に認可にかかわる業務のみで関与していたわけではないことが同じ史料から確認できる。
  8月10日、この担当者は朝鮮現地で耳にした次のような話を労務課長側に報告している。すなわち、「郡に依っては非道い処もあるらしく、善山郡の如き100人〔を〕何日まで揃へるから幾何〔いくら〕で請負はしてくれと言った様です」というものである。伝聞ではあるが、割当募集の段階でも行政機関が労働者の選定も含めて関与したことをうかがわせる。
  そして、この人物が遂行する募集自体でも、面(地方行政単位で日本の「村」にあたる)の役人や警察官が直接関与することとなった。8月12日付の報告は次のように記されている。なお、文中に出てくる「区長」は地主層(史料では「両班」の語を用いている)の朝鮮人で、日本内地行き労働者募集に反対していたという背景がある。

  牛谷面、開津面、この両面が果して適格者を20〔人〕宛出せるか否か疑問であった訳ですが駐在所面事務所共馬力を掛けて宣伝勧誘に努めてますから希望者が定員を超える見透しは付きました…
  署の高等主任は駐在所へ電話で「此の募集は後で必らず喜ばれる募集であり、警察干係の人も来てること故区長に委せず自分で勧誘すること」と督励してくれますし、郡庁では社会課労務係の主任が明日より郡から面へ手分けして歩き、若し予定人員丈け集まらぬ等と言ふ面〔が〕あれば他面に割当てると言って嚇かしてやると言ってます様に署及郡庁は非常に力を入れてくれます。又各面長も進んで面の人間を内地に出さうとしてます…〔反対する区長のいるところでは〕区長に委せず巡査及面吏員が歩いてくれる訳です… (註6)

  警察署とその命令を受けた駐在所の警官、郡庁の担当者、面長、面吏員が先頭にたって、割当られた朝鮮人労働者の確保に努力していることは上記の史料から明らかである。もっとも、この史料の文言にある、これら警官や官吏が携わった業務は「宣伝勧誘」となっている。
 だが、宣伝勧誘で済んだかどうかはかなり疑問である。まず、宣伝勧誘の業務に警官が当るということが奇妙である。そもそも、民衆の側にとっては、警官が行う宣伝勧誘自体が権力を背景とした脅しと捉えられる性質を持つだろう。
  また、労務動員に先立って施行されていた陸軍特別志願兵制度においては、地方行政機関の関与のもとで、朝鮮人青年を無理に「志願」させることがしばしば行われ、帝国議会ですら問題として取り上げられた状況があった (註7)。この「志願の強要」は、地方行政機関同士が、どれだけ国策にそった成績をあげたかの競争を行う過程でなされたものである。郡庁側が面に対して「若し予定人員丈け集まらぬ等と言ふ面あれば他面に割当てると言って嚇か」していたという労務動員についても、やはり、同じように面同士の競争があったのである。とすれば、単なる宣伝勧誘以上のこと、つまりはその地域の朝鮮人に何らかの形で圧迫を加えたり、あるいは甘言詐欺のような言動を弄したりして、割当てられた人員を揃えたこと可能性は高いといってよいであろう。
  労働科学研究所がまとめた調査報告である『炭礦における半島人勞務者』(1943年9月。朴慶植『在日朝鮮人関係資料集成』第5巻、三一書房、1976年、に収録。原本は一橋大学経済研究所などに所蔵)には、この時期、日本内地の炭鉱に来ていた朝鮮人のなかには騙すようにして連れてこられた者が少なからずいたことを示唆している記述がある。すなわち、「B炭鉱の労務課調べによれば、仕事先及び炭鉱について完全に理解を以て渡航する者は約10%程度にして50%以上が行先は勿論、勤務先及仕事について知らずにやって来るという」というものである (註8)
  さて、以上の史料からも、労務動員計画・国民動員計画における朝鮮人労働者の充足が、とうてい「募集」や「斡旋」といった語で表現されるような穏当なものではなかったことは確実である。ただし、これまで見た史料の記述からは、日本内地に送出された朝鮮人労働者に対して直接的な物理的暴力が加えられたかどうかは断定できない。
  だが、思想対策係「半島人問題」という文書(水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第7巻、柏書房、1998年、に所収。原本は法政大学大原社会問題研究所所蔵の協調会文書)にはこの点をより明確に示す記述がある。この文書は、「思想対策研究会報告書第二輯」という位置付けをもち、その「はしがき」には「昭和19年8月4日 思想対策係 西実」の日付、署名が記されている。ここから、文書の成立が1944年8月頃であり、西実という人物がその編集執筆にあたったことがわかる。西実は1941年6月から1945年7月まで協調会調査部参事の職にあり、思想問題や労務統制の研究を行っていた (註9)。水野直樹がすでに指摘しているが、思想対策研究会ないし思想対策係は協調会のなかに設置されたものと推定して問題はないだろう。また、「はしがき」では、研究会を開催し「当局及直接彼等を使傭する関係業者の意見をも徴して其の概要を取纏め、以て半島人問題調査の手懸りとする」ものとしてこの文書が作成されたことが記されている。具体的な研究会開催の日時は1944年1月から同年6月までの6回で、その講師は警視庁、内務省、厚生省、鉄鋼統制会、土木建築統制組合、石炭統制会の職員であったことも明記されている。
  さて、この文書で注目されるのは次の箇所である。

  半島労務者の労務管理には幾多の問題が存してゐる。先ず労務管理は募集の時から始まるものと謂はれる。蓋し言語風習を異にする場合其の労務管理は朝鮮にゐる時から始ってゐると知るべきだとの信念を有する人(石炭統制会の田中勤労部長の如き)すらある。何となれば朝鮮に於ける募集状況を見るに、曽ては野良で仕事最中の者を集め、或は寝込みを襲ふて連れて来る様な例も中にはあって其の誤れるや甚しい。計画的に募集の準備をして供出することが切に要望される所以である。

  この文章を含む項目の最後には「(石炭統制会勤労部長田中丑之助氏談)」の文字が記されている。言い換えれば、この文章は、西実がまとめたものであるが、研究会に招いた石炭統制会勤労部長の言葉をもとにしていると考えられる。石炭統制会勤労部長の職にあった者が動員の実態を正確に把握している可能性はかなり高い。「はしがき」によれば、田中石炭統制会勤労部長を招いて研究会を行ったのは1944年6月8日である。したがって、少なくともそれ以前、つまり朝鮮における国民徴用令の適用前に物理的暴力的によって連行された朝鮮人がしばしば行われていたことは間違いない。
  この文書の記述の信憑性に疑問を差し挟む論者はおそらくいないと思うが、念のために、さらにはっきりと物理的暴力による連行の実在について記した別系統の史料を見ておくこととする。1944年7月31日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された「復命書」(水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第7巻、柏書房、1998年、に所収、原本は国立公文書館に所蔵)がそれである。この文書は、「朝鮮民情動向竝面行政の状況」についての調査の指示を命じられた小暮泰用(権泰用という朝鮮人ではないかという推測があるが明らかではない)が、調査結果をまとめたものである。もちろん、公開を前提としていたものではない(特に珍しいことではないが、○秘の印も押されている)。つまりは、この史料は、植民地を維持し、植民地民衆の協力を引出して戦争を遂行しようとしていた組織の内部資料である。このことは、逆にこの史料に記された事実の信憑性の高さを裏付けると言い得る。朝鮮を植民地として維持しようという職責にある者こそが、朝鮮社会の実状、朝鮮民衆の生活実態をリアルに把握しなければならなかったのであり、さらに外部に発表する性質の文書でないから、事実を糊塗したり粉飾したりする必要はなかったからである。
  具体的に内容を紹介していこう。この文書は「1、戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢 殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見」「2、都市及農村に於ける食糧事情」「3、今次在勤文官加俸令改正の官界並に民間に及したる影響」「4、第一線行政の実情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何」「5、私立専門学校等整備の知識階級に及ぼしたる影響」「6、内地移住労務者送出家庭の実情」「7、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何」の各項から構成されている。
  このうち、第1項は、朝鮮人の新聞社役員、専門学校教授、宗教家、弁護士、実業家との懇談会で出された意見をまとめたものである。そこで注目されるのは、出された要望中に「今後朝鮮より供出する労務者は従来の如き募集又は官の強制斡旋方式を改め指名徴用制を速やかに実施すること」があることである。これは、この段階での労働者の選定、送出が、朝鮮人にとっては「むしろ徴用のほうがまし」と思わせるほど強制的で耐えがたいものとなっていたことによるものと推測される。
  ついで、第4項では、邑や面(日本内地の町や村にあたる)の行政の問題点が率直に指摘されている。そこでは「上級官庁の監励出張に依り強調せらるる施策方法に関してのみ而も其の結果特に最終結果」のみが末端の官吏の間で問題とされており、例えば食糧供出でも「虚偽の報告」をあげたり、割当の達成のみに全力を注いでいるという状態となっていることが報告されている。これを受けての記述は次のようである。

  為に民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(ママ)(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。
 斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ

  さらに第6項の内容を紹介しよう。ここでは、労働者がしばしば無理やり送出されていたこととともに、日本内地等に連れて行かれた朝鮮人たちの扱いもまた人権をまったく無視したものであり、その結果、朝鮮に残された家族は悲惨というほかない境遇に陥っていることが述べられている。「無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であろうか、一言を以て之を言ふならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない」のであり、「蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様で」この点も憂慮されるというのである。これは、就労先の事業所の賃金が安いだけでなく「内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃走防止策としての貯金の半強制的実施及払出の事実上の禁止」があり、残された家族に十分に送金し得ないことなどによっていると説明されている。そればかりではなく、日本内地に向かった労働者が音信不通となるケースも多く、深刻な問題であることが、具体的事例を挙げた上で次のように指摘されている。

  …軍方面の徴用者の中には克く家庭との通信、送金等があって残留家族にありても比較的安心し生活上にも左程不便を感ぜざるも、特に一般炭坑並に其の他会社等の関係に在りては上記の如く送出後殆んど音信を断ち尚家庭より通信するも返信なく半年乃至一年を経るも仕送金無きものありて其の残留家族特に老父母や病妻等は生不如死の如き悲惨な状態であるのみならず其の安否すら案じつつ不安感を有する者極めて多く、此の如きは当事者の家庭現状にのみ限らず今後朝鮮から労務者送出上大なる影響を与ふるものとして憂慮に堪へないのである

  最後に第7項の内容を紹介しておこう。ここでは、朝鮮において現在どのような制度での労務動員が行われているかや、もはや動員すべき労働力も枯渇しつつある現状などが説明されている。そして、具体的な「動員の実情」として次のようなことが記されている。

  徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である
  其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである

  以上のような史料から、第二次大戦中行われた、労務動員計画・国民動員計画にもとづく朝鮮人労働者の動員に関わる事実として次のような点が指摘できる。

・ 「割当募集」の段階から警官や面事務所の吏員ら行政機関の職員が直接的に労働者送出に関与していた。
・ 末端の行政機関職員らは、上部からの命令の意にこたえ成績をあげるため、割当られた労働者を集めるために相当な無理を行っていた。
・ 就労する場所や仕事の内容について教えられずに労働者を連れて来るケースは少なからずあった。
・ 物理な暴力を加えたり、拉致と表現されるような行動をとることによったりして、本人の意思とは無関係に労働者を連れて来るケースがあり、それは決して無視できるような例外的なものではなかった。
・ そのような詐欺的なあるいは暴力的な手段は、朝鮮における国民徴用令適用以前に用いられていた。
・ 日本内地等の事業所に配置された朝鮮人労働者が朝鮮にいる家族に送金も出来ず、音信不通となるケースも珍しくなかった。

  なお、国民徴用令が朝鮮に適用されたことで、これ以降の時期、暴力的な動員がなくなったかどうかはこれまで見た史料からは判断を下すことはできない。国民徴用令は法令そのものにおいて強制性が明確であったわけであり、これにもとづく手続きをとれば暴力的に労働者を送出しなくとも計画した人員を充足できるようになっていたとも考えられる。しかし、国民徴用令の適用による動員開始後も、他方で問題が多いと指摘された官斡旋の制度も引続き行われたわけであり (註10)、あわせて、朝鮮における労働力の枯渇が進み労務動員に対する民衆側の忌避傾向が強まったであろうことを考慮するならば、とうてい、暴力的な動員がなくなったとは考えられない。
  そうした暴力的な動員がどの程度、朝鮮総督府や日本政府の関係省庁で知られていたのかについて考えれば、少なくとも内務省管理局にその情報は伝わっていたわけであり、他の関係機関も知りうる立場にあったはずであるが、それを具体的に制御するような指示の存在は今のところ確認できない。実際に暴力的な動員に携わった下級の官吏、警官にも責任があるにせよ、朝鮮総督府および日本政府関係省庁の責任も存在すると考えて妥当であろう。
  また、これまで見てきた史料からは、朝鮮人の戦時動員と日本人の戦時動員の実態は明確な差があったことについても確認できよう。本人の意に反して徴用に取られた日本人やつらい思いをしながら軍需工場や炭鉱での労働を強いられた日本人が相当多数にのぼることは否定できないだろうが、職場に配置されるにあたってしばしば拉致まがいの手段がとられた事実があったことは伝えられていないからである。

おわりに

  以上から、「朝鮮人強制連行」が、事実を誇張したり、歪曲したりした上で造りだされた政治宣伝の用語ではなく、むしろ、実態、本質を的確にとらえたものであることを確認することができた。第二次世界大戦下の朝鮮において、暴力的な動員はなかった、ないしはごく例外的なケースだったという主張が成り立たないことは、これまで紹介した史料から明らかである。
  付け加えておけば、「つくる会」は「日本政府が第二次大戦中、『強制連行』を指令した文書をお示しいただきたい」と大学入試センターに要求しているが(前記の「公開質問状」)、これまで見てきた史料をふまえれば、この要求が意味をなさないことも明白であろう。
  行政機関に所属していた者で直接的に「強制連行」に関与したのは、末端の地方行政機関の職員や駐在所の警官である。彼らによる暴力的な労働者の送出は、文書に記された具体的な指令を実行したものである可能性は低い。むしろ、これまで見てきた史料から推測されるのは、上部の指令や意図を貫徹するためにはいかなる手段をとってもよいという思考が彼等に浸透しており、それぞれの地方行政機関やそこに属している個人がいかに国家の意図を民衆に浸透させていたかを数字の上でも示さねばならず、しかも朝鮮人民衆の動員忌避の傾向があらわれ上部から割当として下りてきた送出人員の確保が一般的な手段では到底なし得なくなっていたこと、さらに民衆に対して行う人権侵害を上部が黙認していた状況の存在が、彼らをして暴力的な労働者の送出の実行に向かわせたというものである。
  もちろん、ある時期のある地域のおいてはむしろ容易に「割当募集」の人員を充足しえたというケースもあるし、積極的に戦時動員に応じた朝鮮人の存在を伝える史料もある。それがどのような条件によっていたのかを把握し、そうした事例も組み込みながら、やはり著しい人権侵害による労働者の送出が珍しくなかったことを踏まえ、上記に述べたようなことを掘り下げて朝鮮人強制連行の構造的な把握を進めていく必要がある。
  したがって、今後さらに朝鮮人強制連行の実態を明らかにしていくには、第二次世界大戦下の朝鮮社会の状況、地方末端の行政の実情や警察関係の史料、治安状況についての報告が記された史料等を幅広く調査、収集する努力を重ね、それを検討することが必要となろう。
  その際は、もちろん、すでに知られている史料の再検討と同時に公文書館等での調査による史料発掘を行わなければならない。しかし、おそらく未公開の史料、保管されながら一般には知られていない政府関係文書等も存在すると考えられる。日本政府は、朝鮮人戦時動員の対象となった人々およびその家族、遺族等当事者の声を真摯に受けとめ、史料の調査公開を進めるべきであろう。
  もう一つ、これは自戒を込めて言うのであるが、この分野の研究状況の問題についても述べておきたい。朝鮮人強制連行に関する個別の事例発掘は近年かなり活発に研究成果が発表されているが、それは専門的な研究者ではなく、いわゆる市民グループによってなされているケースが多い。研究者の間には、朝鮮人強制連行の基本的な枠組みについてはすでに明らかになっている、という認識があるのかもしれない。
  だが、すでにもう十分に研究され尽くしているのか、と言えばそうではないはずである。例えば、朝鮮人戦時動員の法制度的な事実関係の整理、時期的な変遷についてもより厳密になされなければならないし、それを体系的に把握することも必要である。あるいは、動員する朝鮮人の選定、送出過程や労務管理の事例について微視的に捉えていくことも不足しているし、それを比較し総合的に捉えることをめざす必要もあろう。
  付言しておけば、研究状況に規定されているのか、近年出版された歴史辞典や年表、朝鮮史の概説書等における強制連行関係の記述は細かな間違いを含んでいたり、誤解を与えかねないものであったりするケースが少なくなく、遺憾である。
  朝鮮人戦時動員の問題は、考えてみれば、朝鮮植民地支配とは何であったかを集約的に表すものである。植民地朝鮮の権力機構が具体的にどんな力を持っていたか、朝鮮民衆をどのように動かすメカニズムはいかなるものであったのか、日本国家は朝鮮、朝鮮人に何を望んだのか、日本国家の要求はどのようにして実行され得ることとなったか、あるいはそこではどんな矛盾が生じていたのか等々の一端が、朝鮮人戦時動員という具体的な問題の検討を通じて明らかにされる可能性があろう。その意味でもこの問題について研究することの重要性をあらためて強調しておきたい。




(註1)  朝鮮人戦時動員を総体として捉えると同時にそれについての法制度的差異を踏まえ、分類を行う作業は、1990年代に金英達によって進められた(金英達『金英達著作集』第2巻、明石書店、2003年)。以下の動員形態の説明も金英達の論稿を基礎にした。金英達は、ここで示したような、いわば小分類のほかに、兵士としての動員と労務動員、朝鮮外の動員と朝鮮内の動員、といった中分類を設ける場合もあった。
(註2) まず、後述のように国民徴用令の適用による労働者の動員とそれ以外の形態による労働者の動員がある意味では差がない。それ以外にも、例えば軍要員としての動員と軍人としての動員は根拠となる法律は異なるが、状況によっては軍要員も戦闘行為を担わされたので軍人としての動員とあまりかわらなかったとも言える。逆に徴兵された朝鮮人兵士が戦闘行為ではなくむしろほかの任務に当っていたケースもある。近年、徴兵された朝鮮人を日本内地で農作業にあたらせる農耕勤務隊として出動させていたという史料が発見されたことが伝えられているが(『朝鮮新報』2002年10月28日付、ただしホームページから確認)、制度と実態の乖離をよく表している例であると見られる。今後のさらなる研究が期待される。
(註3) 『朝日新聞』1982年8月10日付「教科書検定 文部省の見解要旨」。なお、ここで使われている「自由募集」という語は当時存在していないし、官斡旋形態の動員は、朝鮮への国民徴用令適用以後も残されていたので、この見解要旨は正確さを欠いている。
(註4) 『京城日報』1945年12月8日付に掲載された漫画風の絵。なお、『京城日報』はもともと朝鮮総督府の「御用紙」であり、日本語紙であったが、敗戦後、日本人社員が退社した後、朝鮮人社員によって日本語を用いたまましばらく刊行を続けた。
(註5)  千葉県警察部特別高等課『昭和20年・内鮮報告書類編冊』に含まれる、1945年9月28日付の東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」、ただし、朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』第13巻(アジア問題研究所、1990年)に所収。なお、このことを述べているのはとりわけ民族意識が強い人物と言うわけではなく、大東亜戦争のために朝鮮人も努力したことについて肯定的に捉えており、にもかかわらずそのようなことがあった点について不満を抱いていたようである。
(註6)  小沢有作編『近代民衆の記録10 在日朝鮮人』(新人物往来社、1978年)、451頁。
(註7)  宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』(未来社、1985年)、参照のこと。
(註8)  労働科学研究所『炭礦における半島人勞務者』(1943年9月)、前掲『朝鮮人強制連行の記録』69頁に引用がある。
(註9)  法政大学大原社会問題研究所編、梅田俊英ほか著『協調会の研究』(柏書房、2004年)、189、239頁。
(註10)  つまり、1944年9月以降は、AとBが併用されたのである。専門的な研究者による「朝鮮人強制連行」の説明においても、しばしば、@→A→Bのように三段階の過程を踏んだ、と述べられていることがあるが、これは明確に誤りである。ただし、国民徴用令を用いた動員が行われている一方で官斡旋も続けた政策担当者の意図は解明されていない。推測ではあるが、国民徴用令を適用した労働者に対しては国家として負うべき責任が相対的に重かったことが関係しているのかもしれない。