「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」の感想2:メタファーとメトニミー

この冬にメタファーなどのことをあれこれ考えて来た後なので、7章の「ふたつの思考法:メタファーとメトニミーのはざまで」に、まず食い付きたい。以下のような対比が述べられている。

分類科学=分類思考=メタファー=集合/要素=認知カテゴリー化

古因科学=系統樹思考=メトニミー=全体/部分=比較法(アブダクション

以前にこのような対比を見たときには、その整然とした対応に感動したものだが、あれこれ自分で考えて来た後では、少し物足りなく思う。

本来、メタファーやメトニミーというものは、あることを別のことで言い換える文彩だから、このような対比が意味があるためには、それらのレトリックの背景にある比較や並べ立ての論理を、生物学の文脈に即して理解しなければならないだろう。

また、このような対比の中に、メタファーやメトニミーが持ち出されてきた背景には、心理的本質主義やら認知科学やら、人間の根源的なところにある認知能力に結びつけるところがあったと思う。ところが、メタファーやメトニミーの理論自体、素人目で考えても、大して整備されているとは思えない。そんなレトリックの理解で、根源まで遡れるのだろうか。

このブログで今年の冬に考察したことだが、メタファーとメトニミーの単純な対比は、必ずしも適当でない。全体/部分=隣接関係、集合/要素=包摂関係を対比するのであれば、メトニミーとシネクドキとを対比するべきだろう。さらに、メタファーが異なる対象物を結びつけるものであるとすれば、比較解剖学でいうホモロジーやアナロジーは、まさにメタファーである。そして、先に「メタファーを分けること - ebikusuの博物誌」で論じたように、ホモロジーはメトニミーに基づくメタファーであり、アナロジーはシネクドキに基づくメタファーである。

Whewell は、Comparative Anatomy を Classificatory Sciences に含めているそうだが、Owen がホモロジーとアナロジーを分けたときに、ホモロジーarchetype からの系列であると考えていた。つまり、バリバリの比較解剖学者である Owen が、単なる類似性だけではなく、メトニミーでいう隣接関係を想定していたことになる。そのarchetype を、Darwin が ancestor に置き換え、そして比較解剖学は歴史科学となった。

なぜメタファーやメトニミーを持ち出すのか? 単なるメタファーとメトニミーの対比を述べるだけでは、大仰な言葉を並べ立てただけの言いっ放しに過ぎないだろう。


(2010/09/29 追記):
dagboek voor mijn onderzoekingsleven の 2010/09/15 の記事で、上の文の著者の三中さんが、短いコメントを返してくれていたようだ。

「レトリックの「分類」はドロヌマだと思います(深入りしたくない〜).」 とのことなのだが、今更、「分類」を持ち出した張本人に、そんなことを言われても…。別に、レトリックを「分類」するなどという大それたことを考えていません。上に書いたことの繰り返しになるので、強調部分を太字にしました。


(2010/10/14-5 追記):
上の対比の図式で、アブダクションとメトニミーが関連づけられるということなので、あまり深く考えなかったのだが、論証の形式としての演繹(deduction)や帰納(induction)の方が、むしろメタファーとメトニミーにそれぞれ素直に対応しているように思う。つまり、個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すことは、部分から全体へのメトニミー(or シネクドキ)そのものだろうし、具体的事実を並べること自体、メトニミーでいう隣接関係を設定するものだと思える。また、前提から、論理の規則に従って必然的な結論を導きだすことは、前提と結論という異なる二つのものを結びつけることで、メタファーだとも見なせるだろう。

もちろん、演繹や機能は論証の形式だから、論証を充たすだけの厳密な論理が必要だろうが、レトリックの方は、会話の場面でなんとなく納得すれば成り立つものだろうから、その“見立て”が正しいかどうかの厳密なことは問わないものだろう。いずれにしても、ここで考えたいことは、対象をどのように並べ立てて、どのように比べているかである。


そうすると、アブダクションがメトニミーと関連しているように見えたのは、どういうことなのだろうか。著者が引用するアブダクションのしくみは、以下のようなものである。

① データがある
② ある仮説HはデータDを説明できる
③ H以外のすべての対立仮説H’はHほどうまくDを説明できない
④ したがって、仮説Hを受け入れる

このうちの①②はメトニミーそのものだろうが、③④で対立仮説の中からどれかを選ぶこと(こちらがアブダクションの眼目だろう)はメトニミーなのだろうか? むしろ、どちらかの仮説が生き残るということからすれば、自然選択のような過程が思い浮かぶが…。

アブダクションがメトニミーと関連しているかどうかは、どうでもよいことだが、ここで考えた帰納や演繹のことも踏まえて、改めてアブダクションのことを勉強し直してみようと思う。


(2010/10/26 追記):
この章の著者である三中さんが「進化思考の世界」という本を出されたことは、インターネットに流れていて、知ってはいたが、系統樹思考から分類思考と来て、次が進化思考というのでは、あまり興味が持てなかった。三者をどのように対比させるのかよく見えないし、系統樹思考と分類思考の対比自体、上でも論じたように、くっきりと分かれるようには思えない。しかも、元来の O'Hara の対比からもずれていることからして、○○思考というのが融通無碍に用いられているように思えた。そんなことから、今度の本はパスしようかと思っていた。ところが、いろいろなブログでの紹介を読んだり、目次を眺めたりしていると、やはり読んでみようかという気になって来ている。これまで上の本について論じたことで、三中さんの新しい本と重なるところがあるようだが、それはまた読んでからということで。