毎年楽しみにしているのが、国立新美術館での「アーティスト・ファイル」だ。

今回、入り口から3つ目の部屋に入ろうとした時、わずかではあったけれど、違和感があった。
その部屋には色がないように感じた。
実際には色はあるのだけど、他の部屋に比べると微々たるものだ。

色の代わりに言葉や文字が部屋を埋め尽くしていた。

福田尚代は、本を使った作品が多い。
本を折りたたんで一文だけ取り出したり、本を切り刻んだり、本に刺繍をほどこしたり。

そしてわたしは、入って右側の壁一面にあった、回文の作品に目を奪われた。
回文詩というものかもしれないが、それらの回文詩に深い闇とか、冷え冷えとした何かをわたしは感じたのだ。
これらはすべて福田が考えた回文詩だという。

漢字混じりの文と、ひらがなだけの文を並べて展示してあった。

たとえば、ひらがなだけで表したこんな文。

「ういはなかすしてまうとりのめひえいさんへてしかとわあつめふうしたしうふめつあわとかしてへんさいえひめのりとうまてしすかなはいう」

これを漢字混じりの文にすると、

「有為は鳴かずシテ舞う鳥の目比叡山へ
弟子が永久集め封じた慈雨
不滅泡と化して遍在
兄姫の離島まで静かな黴雨」

と、このようになる。

漢字混じりの文にすると、とたんに色が見え、音が聞こえ、匂いまでも漂ってくるような気がしてくる。

図録の中で南雄介氏が言っているように、回文詩は、詠いだしがすでに結尾をはらんでいるという特殊な構造を持っている。

ある一点、つまりある一字を境にそれまでに使ったの言葉を、それることなく、そのまま使い戻らなくてはならない。
そんな成り立ちをした回文詩に表された世界は、やはり独特の雰囲気が生まれるのだろう。

回文詩をただ印刷して並べただけのものがアートなのかという問いかけもあるかもしれない。
でも、福田の回文詩から、さまざまな光景が目に浮かんでくるなら、それは間違いなくアートと言えるとわたしは思う。