取調べの「可視化」の使われ方 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 警察や検察が、一度、疑いをかけた市民に対して、恫喝や暴行を行うのは、取調室だけではありません。連行中、パトカーの中、その他、カメラ、録音がされていない場所なんていくらでもあります。

 何度も言っているつもりですが、取り調べる側がスイッチを押したり、押さなかったり、止めたり、できる録音・録画システムがあることが、私たちにとっての「可視化」になる、という発想が理解できません。ただただ、権力側に都合のいいように使われるだけだと思います。

 ・・・と思っていたら、まんまと検察側の自白の任意性の立証に使われる事案で有罪判決が出ました(栃木女児殺害事件 宇都宮地裁4/8)。

 事件の詳細は知りませんが、状況証拠だけでは立証が困難なので自白で埋めるような事案であり、かつ、その自白を補強するものとして取調べの録音・録画による任意性の立証に利用されたようです。

 自白は、自己に不利な事実を認めた、というそのことよりも、その自白に沿う事実が客観的に認められるか否か、つまり自白に沿う客観証拠があって初めて意味を持つべきものと思います。

 極端に言えば、否認、つまり罪となる事実を被告人が否定していようと、客観証拠があるのであれば、有罪の認定はすべきでしょうし、なければしないということ。被告人がどう言っているかなんてことで有罪・無罪の判断が左右されることの方がおかしいだろう、ということです。

 そうは思いませんか? それとも、一度、自白をしたり、そのあと否定した場合は、どの時点のどの態度を信じますか?もしくは、そのように変遷させる被告人の態度はおかしいから有罪の推定につなげますか・・・私の弁護人としての経験としては多くの裁判官がそのような認定をする傾向があると思いますが。

 人が、何をしたか、ということを認識することは意外と難しいことです。全ての行動がつぶさに記録されていることはありません。部分的、断片的な記録をつなぎ合わせ、推認して認識します。これは日常生活でも同じでしょう。

 本人の目をみればわかる・・・ということもあるのかもしれませんが、裁判官が被告人の目つきで裁判をすることを認めることは出来ないと思います。
 被告人本人が、何をいつ、どう言ったかは、捜査の端緒となるという意味では重要かもしれませんが、その内容自体を事実認定の証拠とすることは、あまり科学的ではないし、結局は、自白を偏重し、無理に自白を強制することを奨励してしまっていると思います。

 そのうえで、取調べの録音・録画制度は、その自白偏重をさらに奨励するために利用するだけだということが今回の裁判でわかったと思います。